STAP騒動で私が感じた「感覚の違い」

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「不正」はなぜいけないのか、その認識が一般の方と研究者の方で微妙なずれがあるように感じています。

こんにちは。科学コミュニケーターの志水です。
ここ1カ月、STAP細胞の騒動に関して、多くの方からご意見をいただきました。ありがとうございました。

一般のお客様と研究者、両方に接する機会がある者として感じたのは、「科学的事実」と「不正」の関係の捉え方に若干の違いがあるということです。今回はこの経験を読者の皆様にぜひご紹介したいと思います。

前回(3/16)の私の記事では、「科学的事実」と「不正の有無」は分けて考えた方がよい、という内容を書かせていただきました。(ここでは「不正」とは"意図的に"データを改変したり、文章を盗用したりすることを指すことにします。※1)まずはそれぞれの進捗状況を見てみましょう。

「科学的事実」つまり「STAP細胞はあるのか、ないのか」という点については、4月7日、共著者のおひとりである、理化学研究所(理研)発生・再生科学総合研究センターの丹羽仁史プロジェクトリーダーが検証実験を行うことを明らかにされています。詳しくは以下をご覧ください。
・検証実施についての理研によるリリース(4/7)

一方、「不正の有無」つまり「意図的に不適切な実験データを提示したのか」という点については、4月1日、調査委員会による調査報告書が提出されました。今後理研の規定に従い、審査が行われる予定です。調査報告書はこちらからご覧になれます。
・理研の調査委員会による調査報告(4/1)


前回の私の記事で科学的事実に関してとりあげたので、今回は不正について考えてみたいと思います。

私は、来館者の皆様と今回の騒動についてお話しさせていただきました。私は、来館者の方に「どういった点が気になるか」をはじめに伺うようにしています。すると、ほとんどの方が「STAP細胞はあると思いますか?」と私に尋ねられたのです。私は皆さんが不正の有無に関心をお持ちだろうと予想していましたが、違っていました。さらにお話を伺うと、ここからはあくまで私の印象ですが、「不正があったとしたらもちろん良くないことだが、STAP細胞の存在が証明されれば、仮に不正があったとしても、それはそれほど大きな問題ではなくなるのではないか」という思いをお持ちのような方が少なくなかったのです。

一方、研究者の方は、「論文として発表する以上、どんな不正も許されるものではない」というご意見をお持ちの方が大半のようです。


読者のみなさまはどのようにお考えになりますか?


私個人としては、繰り返しになりますが、「科学的事実と不正は分けて考えるべきものであるから、STAP細胞の存在が証明されたとしても、不正に対して適切な処分が行われるべき」と考えています。

科学は積み重ねの学問です。「以前の研究がたぶん正しい」といういしずえがあるからこそ新たな理論を積み重ねることができます。科学、特に生物学はあやふやな現象をとらえようとしているからこそ、しっかりとした実験データが要求されます。

「じゃあ、STAP細胞も存在が証明されれば、いしずえになるのだから、問題ないのでは?」と思われるかもしれません。丹羽プロジェクトリーダーが行う検証実験でSTAP細胞の存在が示されれば、確かに大きないしずえとなるでしょう。しかし、不確かなデータしかない今回の論文は、不安定ないしずえにすぎません。もし不安定なものを仮に意図的につくったとしたら、そのいしずえの上にさらに事実を積み重ねていこうとする研究者に対して不誠実と言わざるを得ません。また、つづく研究にかかる費用などが無駄になってしまうことから、社会に対しても不誠実であるといえます。

「なんか、研究ってまどろっこしい世界なのね。結果があってればいいじゃない。」と思われるかもしれません。しかし、科学はその厳密性があるからこそ一定の信頼を得ているということを私たちは知っておいた方がよいと思います。

また、研究者の皆様にも「なぜ不正はいけないことなのか」、改めてこの機会に考えていただければ幸いです。「結果があってればいいじゃない」という感想に対して皆様ならどのようにお答えになるでしょうか。

僭越ながら、来館者、読者の皆様、そして研究者の皆様に私見を述べさせていただきました。皆様からのコメントもいただけましたら幸いです。


※1 意図的でなくても誤った実験データを提示することはありうることです。そのような「ミス」に関しては、一様な基準で処罰を下すのは難しいのではないでしょうか。ずさんな実験によって誤った実験データを出してしまった場合には、研究者の信用が問われるという形に留まると思います。「ミス」につきましてもご意見をいただけますと幸いです。

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この記事への14件のフィードバック

志水さま

研究者の端くれとして、ひとことコメントさせていただきます。
論文を読む側の立場としては、そもそも論文の価値とは、記載された事実(いわゆる結果、result)のみがすべてです。実はそこから導きだされる結論(仮説)は間違っていても構わないです。ひょっとしたら読者側は同じデータから違う結論を導きだすかもしれませんから。そのときは反証実験や反証論文が掲載されます。

だからこそ論文に示されたデータが違っているとか、データを書き換えたことが判明した時はその論文は価値がありません。その場合は、一旦論文を取り下げて正しいデータで再審査を受けるべきだと考えます。間違えてのせてしまったとか、結論は同じなんだから差し替えればいいじゃない、なんておかしな話です。論文に記載されたデータのみに基づいてその論文は審査されたのですから。

ミスという言葉は非常に便利で、意識してミスしておきながら(それは故意ですが、故意かどうかは本人以外に知り得ません)あとからちゃんとしたものに置き換える、ということも可能ですよね。そんな人はいないはずなんて性善説で考えることが果たして正しいことでしょうか?

今回の問題に限ったことではないですが、最近の論文はデータの差し替えを簡単に認めすぎです。差し替えが必要なデータが発覚したらジャーナルの編集者がその論文を取り下げるべきです。

科学論文を書くことを生業としている者としてコメントします。
志水さんのおっしゃるとおりだと思います。

多少の不正があっても結果があっていればいいじゃない...
その結果が限られた中で閉じてしまうクイズの解答とかなら「ずる~い」でおしまいになるのかもしれません。科学は完結していないところがクイズと違うし、科学に魅力を感じさせるところではないかと思うのです。

「結果」は、現時点では正しいかもしれないですが、今後さらに研究が積み重ねられることによって、その結果の解釈は間違っている、解釈が十分でなかったことがわかってくる、さらに不思議な現象が見つかることが多々あるわけです。

結果は実験データから研究者が論理的に導き出した考えですから、解釈次第で異なる結果にまとめられることもあり得ます。科学論文は筆者が実験データから一連の思考過程を示したもので、同じ実験データから異なる解釈を持つ人が科学論文で議論をすることもあります。

この時、実験データが「正しい」ことが前提条件(いしずえ)になっているわけで、そこに手が加えられていたりすると、それを使って考えることが無駄になってしまうし、他に研究している人たちがその結果に振り回されて迷惑を被る、その結果を反証するための実験が必要だったりします。

ある名誉教授は「論文にはデータの解釈よりも正確な実験データを載せることに気を配りなさい。何年経っても議論に耐えうる実験データを。」とおっしゃっていたそうです。

意図的でないミスについては、科学論文でも結果が大きく影響するものでなければ「正誤表」を載せることができます。ただ、その実験データを参照しようと思っている人は「正誤表」も調べなければならず、手間がかかります。また、志水さんがおっしゃるように「ミス」が多い著者は他の読者からの信用が低くなり、せっかく良い実験結果を発表しても信じてもらえなかったりすることもあります。

「ミス」に対して処罰を下すのは難しいし、それはやり過ぎではないしょうか。ただ「ミス」が意図的かどうかを第三者が見抜くのは不可能に近いと思いますが...

研究者としての自分の信用を落とさないようにするためにも、科学論文を書くときは何度も繰り返し、原稿に載せた実験データや図表、写真に間違いがないかを確認します。反響が大きくなればなるほど入念にチェックします。

今回のように研究者のほとんどが懐疑的な見方をしている中での発見ですから、その成果をまとめた論文には細心の注意を払うべきだったのではないでしょうか?「見やすくしようと思ってスケールを切り貼りした」「間違った写真を載せた」のは「ミス」だったのかもしれませんが、読者に疑念を持たせるような行為は実験データの信頼性を低くするだけで何のメリットもありません。それを学ぶには代償があまりにも高すぎる授業料だったのではないかと思います。

コミュニケーターの皆さんには、先人の偉大な科学者たちが緻密な実験によって科学の知識が得られてきたこと、それでも時には間違った解釈をしたこともあったこと、そして今でもまだ解明されていない科学の謎があることを、それぞれの得意分野から来館者の方々に説明していただけると良いのではないでしょうか。

科学者達の書いていることを読むと、「事実」ではあっても不正があれば、
「科学的事実」ではない、というのが科学者の立場のように感じます。

これはこれで、妥当な考え方だし、「不正に対して適切な処分が行われるべき」
なのは異論がありません。たた、データ操作を行ったメンデルの法則が未だに
教科書に載っているのをみるとダブルスタンダードだなぁ、とも思います。

研究者と一般人の違いというよりも、研究者にオフィシャルとプライベートの区別がないのが、問題をややこしくしていると思います。例えば最初の会見、記者会見をするにしてもそれは広報の仕事で、研究者本人が顔を出して発表する必要はなかったと思います。中間報告も、論文撤回どうこうというのは研究者個人として言うのは自由ですが、調査委員として言うのはNGです。オフィシャルにそんな発言をすると、他の誰かが再現に成功してても、発表しにくくなってしまいます。最終報告も、研究の仕方が不適切なのと、組織の人間として不正を犯したというのは別の話では?このあたりの区別があいまいだから、人によって受け止め方が変わるうのだと思います。一般人としては、研究者にもっとオフィシャルに働いてもらいたいです。

それを完全に証明出来る全てのデータが揃わなければ仮説としても世に提案できなかったのであればこれまでの科学・技術の進歩は無かったと思う。提案の仕方が不完全であってても、提案内容に不明確さが残っていてもその仮説の斬新な着眼点や発想がトリガーになって多くの科学者や技術者が係わるようになり仮説が証明されて来た筈だ。私には論文の内容はまったく分からないがその生物化学界の科学者の全てがこの論文は大嘘でまったく意味の無いと判断しているのか。エビデンス100項目の内の1項目に異議を唱えこの論文は大嘘だと全てを否定するのなら今後の科学・技術の発展は無い。(元通信システム技術者63歳)

皆様、コメントをいただきありがとうございます。
それぞれのお立場からのご意見、大変参考になりました。

今回の記事に関しまして、一点付け加えさせてください。

記事では「科学的事実」(および単に「事実」)という言葉を使いました。私は「科学的事実」という言葉を「実験データから導かれる結論」の意味で使用しています。ですが、「実験データ(写真や測定結果)そのもの」の意味にもとれるような書き方をしてしまいました。はっきり区別するために、以下のコメントでは「科学的結論」と「実験データ」という言葉を使います。失礼しました。

ともさま

コメントをいただき、ありがとうございます。

実験データが正しいものであることが論文の前提であるべきと私も考えます。ですから、論文の実験データを差し替えることはあまり好ましくないことだと思います。
ただ、一般論としてですが、実験の再現性が悪い場合、その実験データをどのように扱うかは苦慮されるところではないでしょうか。もちろん、実験の試行数を増やしたり、再現性がよい他の方法を探るはずですが、論文を早く出すことを優先することもないとは言い切れないのが現状ではないでしょうか。

Yutakaさま

コメントをいただき、ありがとうございます。

ある名誉教授がおっしゃたという、「論文にはデータの解釈よりも正確な実験データを載せることに気を配りなさい。何年経っても議論に耐えうる実験データを。」という言葉に私も感銘を受けました。論文の評価をするにあたり、「科学的結論の新しさ」が「実験データの正確さ」よりも重視されかねない状況もある中、そのようなことをおっしゃった方を尊敬致します。

ミスに関しても同様なことが言えるかもしれません。細かい点がきちんとしている論文が評価されるような仕組みがあれば、不備がある論文も少なくなるのでは、と思います。

私たち科学コミュニケーターも研究者コミュニティと一般社会の橋渡しができるよう努力致しますので、今後とも宜しくお願い致します。

渡辺さま

コメントをいただき、ありがとうございます。

科学的事実(科学的結論)は適切な過程を経て見出さられるべきだと私も考えます。メンデルの遺伝の法則やミリカンの油滴実験(電子の電荷の大きさを求める実験。実験データを恣意的に選択した可能性が指摘されています。)などは、後のさまざまな実験でその科学的結論が正しいものであることが示されていますが、「現在の」研究倫理を適応すると、法則に名を残せるかどうかは疑問です。

とっくさま

コメントをいただき、ありがとうございます。

おっしゃる通り、研究者の組織と一般企業では組織のありようが異なることを指摘されている方もいらっしゃるようです。どのような組織の在り方がよいのか、研究者の皆様にもご一考いただけましたら幸いです。

私たち科学コミュニケーターは、一般の皆様のご意見を研究者の皆様にお伝えする役目も担っていると自負しておりますので、今後ともご意見をいただけましたら嬉しいです。

SAES335さま

コメントをいただきまして、ありがとうございます。

おっしゃる通り、「それを完全に証明出来る全てのデータが揃わなければ仮説としても世に提案できなかったのであればこれまでの科学・技術の進歩は無かった」というのは事実であると思います。「完全にデータを揃える」というのはなかなか難しいことです。ですが、「誤った」実験データ(もしくは「意図的に操作した」実験データ)は出すべきではないはずです。導かれる科学的結論が全く異なるものになってしまうからです。

今回の論文は実験データが不十分で、かつその実験データが適切に得られたものか明らかではありません。この状況では、「STAP細胞はない」とは言えず、「STAP細胞があるのかないのか、何も言えない」というのが一般的な見解ではないかと思われます。

コメントを拝読して、私は寺田寅彦の「科学者とあたま」という随筆の一節を思い出しました。

「大小方円の見さかいもつかないほどに頭が悪いおかげで大胆な実験をし大胆な理論を公にしその結果として百の間違いの内に一つ二つの真を見つけ出して学界に何がしかの貢献をしまた誤って大家の名を博する事さえある。しかし科学の世界ではすべての間違いは泡沫(ほうまつ)のように消えて真なもののみが生き残る。」
(青空文庫より引用。http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2359_13797.html)

寺田寅彦が言いたかったのは「仮説」は大胆なものでも、間違ってもよい、ということです。「実験データ」に不備があってもよい、ということではないと思います。そこはちゃんと区別したほうがよいと私は考えています。

志水さま
コメントありがとうございました。
返信するかどうか、迷いましたが、一点だけ。

再現性の悪い実験データをどう扱うかですが、「再現性が悪い」と一言書き加えればいいだけのことではないでしょうか。何回実験を行って何回このような実験データがでた、と記載すればいいと思います。それも含めて読者はその実験データの確かさや、結論の確かさを知る指標にできますから。

論文を少しでも早く出すことの重要性は認めます。だから、たった一回だけのうまくいった実験データで仮説を発表することも否定しません。ただ、曖昧な記述でごまかすのではなく、この実験は一回しかうまくいってませんと記載すればいいだけです(それじゃ論文の審査に通らないかもしれませんけれど)。

こんにちは、志水様。

ちょっと架空の事例を一つ考えてみました。
ある研究者が化合物Aがある化学反応において触媒として使えるのではと発想を得たとします。ただ化合物Aは高価な試薬なので参照試料として微量購入し、実際の実験に使う化合物Aは自分で合成することにしました。合成したものが化合物Aであることは、赤外分光スペクトルでほぼ同じスペクトルとなることで確認しました。その合成した化合物Aで実験してみると見事に触媒として働いたので論文を書きました。その論文には、自分で合成した化合物Aの赤外分光スペクトルを参考として載せました。ところが、発表後、「触媒とならない」という話が追試した人たちから伝わってきました。追試者の一人が論文のスペクトルを見ていて「この化合物Aには不純物Bがわずかに残っている」と気が付きました。そこで、不純物Bが幾分残った化合物Aで実験したところ触媒として働くことが確認されました。このようにして、化合物Aに不純物Bが存在するとき触媒として働くということが明確になりました。
というのが、まず基本の架空のお話です。

この架空のお話のさらに架空のバリエーションとして、
ある研究者は、論文に合成した化合物Aのスペクトルを載せるときに、参照試料として買った純度の高い化合物Aのスペクトルを「こっちでもよいだろう」と載せてしまいました。当然、追試者は論文を書いた研究者も純度の高い物を使って実験したと判断しました。純度の高い化合物Aで追試した追試者はのきなみ「触媒とならない」という結果となり、化合物Aの触媒能という話は消えていきました。
というのが、この架空の話のバリエーションとなります。

実際このようなことがあるかどうかは別にして、実験データた常に自分の行ったことを忠実に表すことが大事というおとぎ話です。

①「科学的結論は正しいが実験データが不正な論文」と、②「科学的結論は間違っているが実験データは正しい論文」のどちらが「研究者」にとって迷惑かといえば、②の方だと思います。科学的結論が間違っていたら、つづく研究にかかる費用などは結局無駄になってしまいます。たとえ実験データに不正があったとしても、科学的結論が正しければ再現も可能ですし、つづく研究に更なる発展が期待できるので、決して無駄とは言えません。社会にとっては、「正しい論文」による、あまり社会の役に立つことのない発見よりも、たとえ「不正な論文」でも歴史的大発見の方が、はるかに有難いのは言うまでもありません。科学コミュニティにとっては、意見が分かれているようです。

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