STAP騒動 ~科学コミュニケーターは何をすべきだったのか~

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本日12月26日、理研外部の専門家からなる「研究論文に関する調査委員会」は、STAP細胞に関する2本の論文に関して、論文に記載された実験に関する調査報告書を発表しました。

今回の調査はおもに「研究不正の有無」について調べたものです。 先日「科学的事実(科学的結論)」に関しては、検証実験の結果が報告されました。しかし「この騒動は何だったのか?」を考えるうえで、今日の発表はより注目されるものでした。  

調査結果はさまざまなところで報道されていますが、ここでおもな点を簡単にまとめておきます。

 

・「STAP幹細胞」「FI幹細胞」は新たに発見したSTAP細胞からつくったとされているが、元から知られていた万能細胞であるES細胞由来であった。

・「STAP細胞」の多能性を証明する実験(テラトーマの作製、キメラマウスの作製)で使われたSTAP細胞もES細胞由来であった。

・新たに2つの実験でデータのねつ造が認定された。

 

これ以外にも「実験データが適切に保管されていない」など不備が指摘されました。

今回の調査によって、実験内容のほとんどに、「根拠があるとはいえない」とされたわけです。騒動が一区切りついた今、未来館の科学コミュニケーターとして、科学コミュニケーションは何をすべきだったのかこの記事で振り返ってみたいと思います。

 

科学コミュニケーションの要素の一つとして「科学の事実を一般に伝える」ということが含まれるならば、今日の調査結果の解説も当然科学コミュニケーションといえるでしょう。私にとって印象的だったのは、「今日の話はわかりやすいなあ」という点でした。調査の内容自体はとても専門的で、難しい実験用語もたくさん出ているものです。しかし、図表の見方を適宜補ったり、資料に用語一覧を載せたりするなど丁寧に行っているのが感じられました。

 

伝えたい情報を、聞き手に合わせて段階的に説明すること、つまり「分かりやすく伝える」ことは、やはり科学コミュニケーションにとって必須のことでしょう。しかし、科学コミュニケーションに携わる私たちに「分かりやすく事実を伝えれば十分」という思いはなかったか? その点に、思い至りました。深く考えなければならなかったのは「何を伝えるか」ということなのかもしれません。

 

今からさかのぼること約11カ月。理化学研究所からSTAP現象に関する論文が発表されたのは1月29日のこと。その後約2カ月の間につぎつぎと疑わしい点が明らかになりました。研究者から「論文中のこのデータのこういう点がおかしい」という意見は多く出ましたし、マスメディアやインターネット上でもその情報は伝えられました。一方、「そのようなことをするのが科学においてなぜいけないとされるのか」という点を指摘する研究者、メディアは少なかったように感じます。科学に携わる人にとっては自明のことであっても、科学コミュニティの外から見ると、なぜそこにこだわるのか分からない、といったことはなかったでしょうか?

 

未来館にいらっしゃる来館者の方とお話しした際にも、実験データより結論(STAP細胞はあるのか、ないのかという点)に興味をお持ちの方が多かったのが印象的でした(このあたりについては4月に記事にしました)。その記事に対してコメントをいただいたのでご紹介します。

"研究者の端くれとして、ひとことコメントさせていただきます。  論文を読む側の立場としては、そもそも論文の価値とは、記載された事実(いわゆる結果、result)のみがすべてです。実はそこから導きだされる結論(仮説)は間違っていても構わないです。ひょっとしたら読者側は同じデータから違う結論を導きだすかもしれませんから。そのときは反証実験や反証論文が掲載されます。"

(「とも」さんのコメントより一部抜粋)

実験データの正確性が結論の正否よりなぜ優先されるのか、よく伝わると思い、引用致しました。

 

今回の騒動では、それがよいか悪いかは別にして、「STAP細胞はあるか」を重要視する声は多かったのですが、「不正の有無」について話題になりにくかったように感じます。いろいろな理由があるでしょうが、理由の一つとしては、不正の有無を話題にするには、前提として最先端の実験内容を理解している必要があることが挙げられます。難しい実験内容よりも「STAP細胞はあるのか、ないのか」という結論に興味が移るのも当然かもしれません。では、実験内容を分かりやすく伝えていたら、「不正の有無」に注目が集まっていたでしょうか?私はそうは思いません。「なぜ不正がいけないのか」「何が不正なのか」そういった自明とされがちなことをもっとお伝えすべきだったのではないでしょうか。

 

この他にも、知られていない科学の常識はたくさんあるように感じます。 「研究者ってどういう人なの?」「研究室やチームってどういう体制なの?」「研究って、そもそもどんな営みで、どのような考え方のもと行われるのだろう?」そのようなものが伝わらないといくら正確な情報を伝えても、流されるということを痛感した一年でした。

未来館の科学コミュニケーターとして、私たちは分かりやすくお伝えすることを日々心掛けています。ですが、それ以上に何をお伝えするのか、あるいは研究者にどんな情報を求めていくのか改めて考えなければいけないと思うのです。研究結果だけをニュースとして流していればそれでいいのでしょうか?今年を振り返って、私は考え込んでしまいました。

 

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この記事への5件のフィードバック

本日の記事とても共感しました。
私は研究者というわけではなくただの科学好きですが、今回の一連の事件について同じようなことをずっと思っていました。

このような考え方を一般の人(研究者以外の人)にメディアは伝えていってほしいと思っています。
しかし、記者会見等を見ているとそれは難しいとよく感じます。記者と科学に近い人との意識のギャップが大きすぎると思っています。

平島様

コメントをいただき、ありがとうございます。

科学に携わる方にとっては当たり前のことでも、一般には知られていないことはたくさんあると思うのです。あるいは、科学の常識は一般社会の非常識ということもあるかもしれないわけで、どちらがよい、ということではないことに留意したいとは考えています。

私たち科学コミュニケーターは、研究者の方と一般の方の両方と接する機会があるという恵まれた環境にいると思います。今回の騒動を通じて、科学コミュニケーターがやるべきことが一つ見つかったと感じています。


読ませていただいて、悩ましさが伝わってきます。どうしようもない、というしかないように思います。

Nature誌も「科学コミュニケーター」の一翼を担っているわけで、彼らの悩ましさ、悔しさも推し量れます。Natureは一商業週刊誌であり、今回、データの確度より読者へのアッピールが論文採用に大きく作用したように思われます。Natureは、今回のような問題とならない誤論文の山でもあることは、理解しておくべきだと思います。科学の実態は、「真理」の蓄積ではなく、「検証による修正と改訂の繰り返し」と言えると思います。

今回のSTAP騒動に関わるネットやマスコミの論議に欠けている2つの視点を挙げておきます。

 1つは、推定無罪の原則です。当初、あり得ないとしていたES細胞がいくつか若山研に存在したことになり、STAP関連細胞群がそれらに由来するとすると説明がつくことで、STAP論文の疑義は一応の解決となったようです。そこでES細胞の混入が疑われるわけですが、「混入」にはいくつかの可能性があり、一部のネットサイトに見られるように、早計に小保方犯行説一色になるのには違和感があります。こう発言するとたちまち小保方擁護派と烙印を押されそうですが、開かれた民主的な社会では、やはり確証がない以上、推定無罪の原則に立つべきではないでしょうか。でないと、野蛮な一種の社会ヒステリー現象に見えてしまいます。ヒステリーに陥った人には心地よいのでしょうが。
 さて、異細胞の「混入」には、無自覚的・偶発的なものと、可能性のある人物による意図的なものがあります。「可能性のある人物」は一義的には、若山氏も含めた当時の若山研の構成員全員でしょう。また「意図的」にも、都合のいいデータを揃える(捏造)や、相手の実験にダメージ/混乱を与えるという目的の明確なものから、人間関係その他のストレスから来る単なる嫌がらせ、愉快犯(相手は誰でもよい)的犯行まで、いろいろあります。こう考えると、目撃者などがいない限り、混入経路を確定するのは困難であろうと思われます。あまり話題になりませんが、研究室での、意図的な「混入」事件は、ままあることです(一般社会と変わりません)。確証がないのに、利害損得関係からのみ犯行者を判断してはならないと思います。
 2つは、今回のSTAP騒動の背景をなす日本の科学の後進性です。日本学術会議は「我が国の科学研究全体に負のイメージを与える状況が生み出されています」という声明(2014. 7.25)を出しましたが、本当にそうでしょうか。また最近、日本学術会議は、大学関係3法人と共同で「 科学研究の健全性向上のための共同声明 」(2014.12.11) を出しました。主旨は、研究者一人一人の意識の向上を促すもので、それ自体はごもっともなのですが、問題の核心から大きくずれている、と私は思います。今回のSTAP騒動の核心は、研究者の育成・教育(大学院教育)、研究室の管理運営、現代社会に相応しい研究機関の管理運営体制にあったわけで、それらへの言及が欠落している落第文書といっていいでしょう。仰々しく4者共同の声明で、同時に英文(中学生レベルの作文?)も出しているのに、世界的には無視されてしまった(日本の動きを敏感に取り上げてきたNature は無視)ことが、それを如実に語っていると思います。このような文書が公けに出現すること自体、日本の後進性の一つの現れと言えるかもしれません。
 今回のSTAP騒動は、科学の文脈では、一商業週刊誌に掲載された、不十分な(捏造・不正を含む)実験データを元に作り上げられた2つの論文が撤回された、というだけのことで、残念な不祥事ですが、科学の世界ではまま起こる事象の1つに過ぎません。この騒動の科学上の責任を問うとすれば、1には論文の主要な著者たち(4名)であり、2には、論文の不十分さを見ぬけずに、出版に踏み切った週刊誌の編集者で、論文撤回ということで、両者は既に一応、科学上の責任を取ったことになると、私は理解しています。残りの社会的責任は、遅々としていますが、これからです。
 一方、社会現象としては、CDBという組織が生んだ特異ケースである、と私は思っています。というのは、STAP論文の成立過程が異様だからです。故笹井氏の記者会見での発言によると、彼が本件に関わったのは、竹市センター長に依頼されてのことです。具体的なことは不明なのですが、一度没になった論文を、興味があるからといって、横から割り込んで論文を書き直すという「越権行為」をする神経が私には理解できません。しかも、書き直し論文が完成するまで、研究責任者の一人若山氏は蚊帳の外に置かれたようです。これは「道義的」にも私には考えられないことです。こうした「暴挙」を可能にするのは、竹市氏を長とする「村社会の論理」ではないでしょうか。村社会では「村長」は絶対権力者ですから、所定の査定もなくPIを採用するなど、「何でも」出来るからです。反対者も口出しできません。(関西特有の「前近代的」風土が、それを可能にしているのかもしれません。東京では、多分あり得ない?)したがって、旧CDBは、現代の日本に相応しくない?前近代的組織であり、それがSTAP騒動の舞台になってしまった、とは言えないでしょうか。
 本来なら、STAP論文は、笹井氏が乗り出す前の、Natureに却下された時点で終焉すべきもので、その後の展開は「虚構」だったと言えると思います。もちろん、Nature以外の雑誌には載ったかもしれません、それも極マイナーな雑誌に。ただし、その場合、STAPという呼称は生まれなかったでしょう(STAPが笹井氏の発案とすればですが)。
 ところで新生CDBは「近代化」したのでしょうか。理研は、改革委員会提言書(2014. 6.12)で名指しで糾弾された竹市氏を「自然解任」し、「特別顧問」に囲い込んでしまいました。懲罰委員会は、今回のSTAP騒動プロデューサー?竹市氏を加えて処分できるでしょうか。

皆様、よいお年を。

Nekoguさま

いつもコメントをいただき、ありがとうございます。
今年も宜しくお願い致します。

おっしゃる通り、今回の騒動は「残念な不祥事ですが、科学の世界ではまま起こる事象の1つ」で終わるはずだったものが、さまざまな要因で大きな騒動になってしまったと私も考えています。大きな騒動になったことで、有益な問題提起も生まれたという面は否定できませんが。

この「さまざまな要因」があるせいで、無意味な推論がいろいろなところでなされ、不信感につながっているように感じます。科学と社会をつなぐ者として、勝手な推論は絶対にしてはいけないと心掛けております。

また、不信感を生むような科学コミュニティの対応があったことも今後の課題だと思われます。組織として、問題が起きないようにどのような対策をしていたのか?問題が起きたときの対応を考えていたのか?難しい課題がつきつけられていると感じます。これを機に、多くの誠実な研究者の努力が報われるような制度に、さらにすすんでいきますよう願っています。

こんにちは、清水様。

>研究結果だけをニュースとして流していればそれでいいのでしょうか?今年を振り返って、私は考え込んでしまいました。

研究者だからと言って、研究というものをよく知っているかというとそうでもないんですね。なんていうか、若い時は目の前の課題に取り組んでいて、自分の課題には詳しいけど、自分が広い科学技術の発展の中のどこにいるのかさへ、考えたりしないことも多いものだからね。

私も若い時はそうだったんだけど、引退が目の前に見えるようになって少しだけ「研究開発って何だろう、自分がやっていることって何だろう」とか、考えることも増えてきたわけです。

なんていうかな、ものすごく大きなジクソーパズルの一つか二つのピースを明らかにしているのが個々の研究者の研究というもののように思えるのです。自分一人で全部のジグソーパズルを完成できる研究者なんていないのですよ。もちろん、そのピースの中には「重大なピース」というのがあります。そのピースが嵌ると他のピースが「あっ、ここに嵌る」と分かるようになるようなピースです。そのピースを明確にした研究者は「偉い」のです。私なんかはずいぶんとピースが埋まって、「この形のピース」と比較的簡単に見つけ出せるピースを探すような研究しか、してこなかったから、「あまり偉くない」訳だけどね(笑)。まあ、そんな穴埋めみたいなピース探しをする研究者もいないとジグソーパズルは完成しないから、「ダメ研究者」とまでは思ってはいないのね。

なんていうかな、一つの研究成果を一般の人に解説されるときに、その成果が、科学技術の発展という馬鹿でかいジグソーパズルを完成していくときに、どのくらい「大事なピース」か?、みたいな視点で解説されるとよいのではと思いますよ。そのピースが埋まることで、他の研究者が自分のピースの嵌る場所かはっきりするようなピースかどうかということね。

なんていうか、ピースそのものを解説すると同時にひそのピースが嵌ることで、ジグソーパズルの完成にどう貢献するのか?みたいな説明をしていただけるとありがたいなと思ったりします。

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