令和3年 「みどりの学術賞」 田畑哲之博士

生命現象の謎を探究する奥深さ

こちらの写真は日本科学未来館の前で咲いていたシロイヌナズナである(筆者の植物判別能力は低いため誤分類の可能性あり)。

未来館の前で咲いていたシロイヌナズナ(2021年4月撮影)

このシロイヌナズナを皆さんはどう見るだろうか。

シロイヌナズナという植物?それとも草?生きもの?

少なくとも石とは違って“生きている何か”として認識されたのではないだろうか。でも「生きている」とはそもそもどういうことなんだろう。

2021年の「みどりの学術賞」※1を受賞された公益財団法人かずさDNA研究所 副理事長・所長の田畑哲之(たばたさとし)先生は「生命現象とは?」という問いを探究してきた研究者だ。このブログではそんな田畑先生の取り組みや研究にかける想いを紹介しよう。

※1「みどりの学術賞」とは
内閣府ウェブサイト:https://www.cao.go.jp/midorisho/

田畑哲之先生

植物ゲノム研究の開拓者

皆さんはゲノム解読という取り組みをご存知だろうか。1990年頃から世界中の研究者が携わった取り組みである。ヒトゲノムプロジェクトという言葉であれば聞いたことがあるかもしれない。たくさんの研究者が「ATGC」の4つの文字の並びからなるDNAの配列情報がどのようなものかを明らかにしようとしていた。ヒトや細菌など様々な生物種がゲノム解読の対象とされる中で、今回紹介する田畑哲之先生は植物や植物と密接に関わる複数の生物を対象に取り組んでこられた。そしてデータベースなどの基盤作りにも取り組み、まさに植物ゲノム研究の分野を開拓されてきた研究者である。

特定の種だけに焦点を当てず、ゲノム解読という取り組み以外にも注力された先生の興味の中心はどこにあるのか。インタビューのはじめにそのような質問を田畑先生に投げかけた。「私の専門分野は植物学ではなくどちらかというと生化学や分子生物学なんです。」まずそのような話から始まった。分子生物学、つまりDNAなどの分子レベルの物質の働きに注目して生物の謎を明らかにしていく分野が専門だということだ。「生命現象の本質を知りたくてこの分野で研究を始めました。分子レベルで生命現象を明らかにすることでより深く理解できるのではないかと思っていました」。

今回のインタビューでは「生命現象の本質を知りたい」という好奇心から研究を始めた田畑先生の取り組みとその時の心境を尋ねた。

木ではなく森を見る視点でゲノム解読に取り組む

ゲノム解読に本格的に取り組み始めたのは当時設立したばかりのかずさDNA研究所に入職された1994年からである。1990年代前半には全ゲノムを解読するための技術や機器などが整いつつあった。「当時ヒトやイネ、大腸菌、枯草菌など複数の生物種を対象に、国際プロジェクトとしてゲノム解読が進んでいました。かずさDNA研究所としてどの生物を対象にするかを検討した際にラン藻を対象にしようという方針になりました」。ラン藻は植物の出現に深く関わっている。植物の特徴である光合成を行うための葉緑体、その起源はラン藻との共生によるものと考えられているからだ(これを細胞内共生説と呼んでいる)。

「地球全体をシステムと捉えたときに、光合成により酸素を生産する植物の役割は非常に重要です。当時植物に関係する生物を対象とするゲノム解読プロジェクトが少なかったことやラン藻であればかずさDNA研究所単独でも全ゲノム解読を達成できるという判断からラン藻を対象とすることが決まりました」。そうして2年後の1996年にラン藻の全ゲノム解読を成功させた。光合成を行う生物としては世界で初めての取り組みだった。その後もシロイヌナズナのゲノム解読に取り組む日欧米の国際プロジェクトに参画し、2000年には植物として世界初の全ゲノム解読を成功させた。シロイヌナズナは扱いやすさから研究材料としてよく使われてきたモデル植物だ。すでにラン藻の全ゲノム解読が終わっていたことからゲノム情報の比較により植物の進化の歴史の証拠となる情報も発見した。独自性を示すことが重要な研究業界においてラン藻に目を付けたことで、設立直後のかずさDNA研究所の名前が世界に知られた。

ラン藻の活動によって作られたストロマトライトという層状の岩石(写真は著者が国立科学博物館にて撮影したもの)

国立科学博物館(https://www.kahaku.go.jp/

また田畑先生はシロイヌナズナのゲノム解読に並行してマメ科植物と共生する根粒菌のゲノム解読を組織単独で進め、成功させている。次々と複数の生物種を対象にゲノム解読に取り組んだのはなぜなのか、ゲノム解読の対象とする生物はどう選んできたか、そこには理由があるそうだ。

「個別の生物種を対象に研究している方はたくさんいて、彼らの情熱やその研究成果はすばらしいです。しかし私自身は個々の生物種の生命現象ではなく、生命現象の本質とは何かという部分に興味がありました。木を見るよりも森を見たいと思っていました。そのためにもさまざまな生物を対象とすることで研究全体が進展し、生命現象自体の解明が進んで欲しいという想いがありました。研究業界全体の研究活動が活発になるように対象とする生物を選んできました。解読されたゲノム情報がどれだけ活用されるかを考えていたわけです」

これまで田畑先生がゲノム解読に関わってこられた生物はラン藻やシロイヌナズナ、根粒菌、ミヤコグサ、トマトと研究業界でも私たちの実生活でも重要な種である。簡単に田畑先生がゲノム解読に関わられた生物とその特徴を次の表にまとめた。

これまで田畑先生がゲノム解読に関わった生物とその特徴

生きもの

ゲノム解読年

生物の特徴

ラン藻

1996

光合成を行えるようになった細菌。植物の祖先の
登場に深く関わった(詳細は前述)。

シロイヌナズナ

2000

生育の容易さや遺伝学的実験のしやすさから、
研究によく使われている植物(モデル生物)。

根粒菌

2000

空気中の窒素分子を植物が利用できる形である
窒素塩の形に変換する細菌。マメ科植物の根に
共生する。

ミヤコグサ

2008

根粒菌と共生するマメ科植物のモデル生物として
研究によく使われる。

トマト

2012

人間の食生活を支えるナス科植物の代表として
遺伝研究によく使われる植物。

上記の表だけでは伝えられないほどそれぞれの生物にはとても興味深い特徴がある。その特徴を自分自身で明らかにするのではなく、研究の動きを活発にするための基本情報を提供することで、業界全体で「生命現象の本質を解明する」という大きな問いに近づいていく。研究業界全体で進めるという広い視点から田畑先生は取り組んできた。

研究業界全体を進めるための基盤作りへの使命感

研究業界全体を進めると言う点では、田畑先生はゲノム情報などに誰もがアクセスできるデータベースなどの研究基盤の作成にも携わっている。

「ゲノムを解読し、その情報を用いることで進化の歴史や遺伝子による機能をより深く知ることができます。例えばゲノム解読によって、あるDNAの配列情報がどのような生命現象に繋がるかを調べるための解析(逆遺伝学)が可能になりました。これは従来の解析(順遺伝学)とは逆の流れになります」。順遺伝学とは、遺伝子の突然変異をランダムに誘発するような処理をしてから、その生き物を観察して外からわかる特徴を見つけ出し、その原因となるDNAの配列情報を特定する研究だ。特徴的な性質をもった個体から原因遺伝子を突き止めるという手法だ。ゲノム解読により順遺伝学とは逆のアプローチ、つまり特定のDNAの配列情報を人為的に変えるなどして生物の特徴がどう変わったかを知ることで、その配列の機能を知る逆遺伝学という手法が生まれた。DNAの配列情報がわかっただけで生きものの特徴がわかるわけではない。人為的な介入を加えてDNAの配列情報と生きものの特徴との関係を調べていく。ゲノム解読以降、順遺伝学と逆遺伝学の両面から研究することができるようになった。生命現象を理解するための手法が増えたということだ。

「日本では順遺伝学のための基盤も組織単位で存在し、集約されていませんでした。それらをまとめ、逆遺伝学のためのゲノム情報もまとめたデータベースを作ることが必要ではないかとゲノム解読に取り組みながら思っていました。そして個々の生物種を研究する人たちのための研究基盤を作ることが自分のミッションではないかと考えていました。」

生きものの生活史や生理現象などを知るためのアプローチとして遺伝学的なアプローチをとることは現在当たり前の手法の1つとなっている。それができるのは共通の研究基盤としてゲノム情報などを利用できるように整備した先駆者のおかげである。田畑先生が作成に関わったデータベースの一つにPlant Genome DataBase JapanPGDBj)というものがある。このウェブサイトは様々な植物について、ゲノムに関する情報や実験を行う上で必要な植物を検索できる統合的なデータベースになっている。実験に用いる植物は研究機関や研究プロジェクトごとに管理されているが、このデータベースでは機関やプロジェクトを横断して実験植物の所在を検索できる。また共通の祖先を持つ異なる生物種同士の遺伝子の類似性を調べることができたり、研究論文や外部のデータベースにまとめられたゲノムに関わる情報が集約されていたりするのでそれらを容易に検索できたりもする。また現在はPGDBjの後継となるPlant GARDENPlant Genome And Resource Database ENtry)という統合型データベースの整備を進めている。このデータベースはゲノム情報のニーズの増加に伴い、ゲノム情報をより充実させたものである。次々と公開されたDNAの配列情報や、植物種ごとの細部にわたるゲノム情報など、これまでよりも多くの情報を検索しやすくなっている。使いやすさも向上しており、ある生き物についてゲノム研究を行う際にまずは見てみようと思わされるデータベースだ。

植物ゲノムに関する統合データベースPlant GARDEN(Plant Genome And Resource Database ENtry).

Plant GARDENhttps://plantgarden.jp/ja/index

また田畑先生は「環境変動に対する植物の頑健性の解明と応用に向けた基盤技術の創出」という研究プロジェクトの研究総括を務めている。豪雨や干ばつの増加、そして気温の上昇といった気候変動が世界的な課題となっている今、安定した食料生産の面でも対策が必要とされている。このプロジェクトでは気候変動に対応できる植物の特性を明らかにし、それを技術として応用していくための基盤作りを目指そうとしている。技術開発を見据えた基礎研究の第一歩を進めようとしているのだ。

「技術開発などの実用的な研究に直接結びつけるのは専門家ではないから難しいです。基礎研究と実用化の間にはまだまだ溝がありますが、それを埋めるための取り組みに貢献したいと考えています。全ての基礎研究が実用化に繋げられるわけではないが、税金をつかって研究しているからこそ、直接的に還元できる基礎研究も誰かが行う形が望ましい」

この研究プロジェクトでは実際のフィールド研究を見据えた基礎研究を行っている。自身の問いを追及されるだけでなく、研究分野の幅を広げるべく使命感を持って取り組まれる姿にはまさにプロフェッショナルという言葉がふさわしい。研究業界全体の進展に貢献してきた田畑先生が自分の好奇心の出発点について今思うことはなんなのか。

生命現象を探究する研究の奥深さ

「生命現象の本質は500年経ってもわからないかもしれない」。田畑先生はそう言った。私はこの言葉を聞いたとき、その言葉の重みを感じずにはいられなかった。そこには生命現象を探究する研究の奥深さやそれに真摯に向き合う田畑先生の姿勢が伺えた。500年経ってもわからないかもしれないと表現されたのはなぜだろう。

「生物のゲノム情報自体が複雑なのでそもそも人が直感的に理解することが難しい。DNAの配列情報は生命の設計図とも言われますが、その設計図自体が複雑です。人間が作る設計図はシンプルでわかりやすいと思います。しかし生命の設計図は生命の誕生以来、長い時間の中で何度も改変されてきたもので、とても複雑になっているんです。どの遺伝子がどのように機能しているのか、遺伝子同士の相互作用を含めて調べようとすると、とんでもない情報量になります。そこでコンピューターの力で読み解く技術も発展してきていますが、その複雑さの全貌がわかるのはいったいいつになるのでしょう」

田畑先生はこうも語る。

「研究が進むほど、新しく調べるべきことがたくさん出てきます。そしてまた、計測技術の発達がそれを可能にします。調べるべきことは、新しく見つかった課題(未知の現象)だけでなく、新しく得られた知識で既知の現象を見直すことも必要なんです。そうすると調べるべきことがどんどん膨大になってきます」

ゲノム研究やそれに関連する分野で取り扱う対象の複雑さと、それを解き明かすための科学の営み。この2つに触れながら、田畑先生は生命現象を明らかにしていく道のりの途方もなさを語ってくれた。特に2つ目の科学の営みは実際に新しく調べるべきことに出会い、向き合ってきた方だからこその言葉だろう。研究を進めると様々なことがわかるが、それ以上にわからないことも増える。そのわからないことは、わかったことの先に見えた全く未知の現象かもしれない。しかし話はそれだけでは終わらない。これまでわかったと思っていたこと(既知の現象)の中にも未知の現象が隠れているかもしれないからだ。そのような繰り返される科学の営みの中に生命現象を研究することの奥深さを感じた。先の「生命現象の本質は500年経ってもわからないかもしれない」と語る際に田畑先生は「悲観的にさえ感じている」と言っていた。しかしその言葉の反面、どこかワクワクされているような表情をされていた。未知の生命現象に向き合う研究者としての顔を見せてくれた。

Zoomでの取材に答えてくださっている田畑先生の姿

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