「ちがい」ってなんでしょう?
例えば、隣にいる家族や友人、パートナー。電車でたまたま隣に座った人や、今日すれ違った誰か。
その人と「わたし」の間にはどんな「ちがい」があるでしょう?
身長や国籍、育った場所、考え方、好きなもの、嫌いなもの。
私たちは、多様な「ちがい」とともにある世界の中で生きています。
けれど、その一つひとつに立ち止まって向き合うことは、あまり多くないのかもしれません。
xDiversityという試み
未来館の研究エリアにラボを構えるxDiversity(クロス・ダイバーシティ)プロジェクト。人や環境の「ちがい」をAIとクロスさせることで、多くの人に寄りそった問題解決の仕組みづくりを目指してきました。
未来館に拠点を置いてから、2026年3月で6年。
2026年2月11日にはその活動の節目となるイベント「『ちがい』×AI ~さわって、ためして、研究者とはなそう!」が開催されました。
イベントではxDiversityプロジェクトが開発・研究してきたテクノロジーが大集合。会場には、展示を体験したり、研究者と直接話したりする人たちの、にぎやかな空気が広がっていました。何かを知る・教わるというよりも、研究者と来場者がいっしょになってテクノロジーを楽しみながら意見を交わす、そんな空間です。
1日を通して行われたイベントの中では、プロジェクトメンバー4人によるミニトークイベントも2回開催されました。登壇者は落合陽一さん、菅野裕介さん、遠藤謙さん、本多達也さん。これまで未来館でいっしょに数多くの活動やイベントを行ってきた4人の研究者です。このブログでは、主にミニトークイベントを通して見えてきた、“xDiversityプロジェクトらしさ”をたどっていきます。
“伝える”ことから始まった研究
トークは、未来館での6年間の思い出話から始まりました。それぞれ思い入れのあるイベントについて熱く語ったり、ときおり話が少しそれたり、笑いが起きたり。終始にぎやかで、軽やかな雰囲気が流れていました
未来館の研究エリアに拠点を置くプロジェクトは、研究開発をするだけでなく、来館者など一般の人に研究を伝えるミッションも担っています。しかしxDiversityプロジェクトが未来館にラボを構えた当初はちょうどコロナ禍の真っただ中。研究を伝えようにも人が集まること自体が難しい状況でした。そんななかで研究代表の落合さんは、「どうすれば人が集まらなくても研究を伝えられるか」と頭を悩ませていたそうです。未来館内のラボに配信スタジオをつくり、そこから研究者がふだん考えていることを、毎回ゲストを交えながら一般の人に届けるという取り組みも行われました。その配信から新たな共同研究の種が生まれたこともあったとふりかえります。そしてコロナ禍が収束して人が集まれるようになってからは、いろいろな「ちがい」を持つ、より多様な人と一緒に障害とテクノロジーについて考える取り組みをしてきたと言います。
「耳が聞こえないって、どういうことだろうか」
「目が見えない人はどうすれば展示楽しめるだろうか」
「それをサポートするテクノロジーとは、どうやってつくられるべきだろうか」
そうした問いを、来館者や科学コミュニケーターと一緒に考えてきた、という話がありました。
未来館は、科学技術を伝えるためのだけの施設ではありません。
「科学技術と人間のかかわりについて、一般の人をどんなふうに巻き込んで考えられる施設になれるか」。そのチャレンジを一緒にできたことが思い出深いと落合さんは語ります。
みんなでつくるAI
コンピュータビジョンを専門とする菅野さんからは、AIや機械学習をどうやって伝え、わかってもらうか、その難しさについてのお話がありました。
AIのように形のないものは、ただ説明するだけではなかなか伝わらない。だからこそ、実際に体験してもらいながら、どうすればわかってもらえるか、さらには一般の人がAIを作る側に回るにはどうすればいいのかを試し続けてきたといいます。その過程そのものが研究になり、未来館での活動から博士論文につながった例もあるそうです。
※xMod(クロスモッド)についてはこちらをご覧ください https://shadan.xdiversity.org/xmod
音を振動や光に変えてからだで感じることのできるデバイス「Ontenna」などを開発してきた本多さんは、未来館を「ぼくらの基地のような場所」と表現していました。月に一度、あるいは二度、ここに集まってじっくり話す。ワークショップやイベントでは、必ずしも完成されたものではないプロトタイプを持ち込むことも多かったそうです。それでも、そのまだ途中のものを受け入れてくれて、フィードバックしてくれる来館者がいる、技術が未完成な状態のまま、試しながらいっしょに進んでいける場所。研究室とも、発表の場とも少し違う、未来館はもうひとつの研究拠点のような場所になり得るのかもしれないとお話を聞きながら感じました。
そして話題はこれからの構想へと移っていきます。
落合さんからは、AIの急速な進展により、専門的な知識やスキルがなくてもだれもがAIの開発に関われる時代になりつつあるというお話がありました。言葉で指示を出すだけでプログラムを書くような技術も現れている中で、目で見ることが難しくてもプログラムを書くことができたり、音が聞こえなくても、その情報を振動や視覚など、別のかたちで受け取ることができたりということが当たり前になりつつあります。「いろいろなかたちのAIが生まれることによって、もっと一人ひとりに寄り添ったAIができてくるようになるといいなと思う。」「AIが高度化し、人の手を離れたように感じるからこそ、それを楽しみながら、みんなでもっと今までになかった多様性を包含するものをつくれたら。」と落合さんは話します。
一方、本多さんからは食の多様性やもっと多様な年齢層に対するAIというような、”多様”というキーワードがたくさん飛び出しました。「みんなで合宿したいね!」「じゃあ、未来館で温泉掘る?」という冗談のような一言も。会場にも大きな笑いが起こります。一見すると雑談のようでいて、このような突飛なアイデアを研究者、来館者の隔たりなく、みんなで出し合うことが思いもよらぬ研究へとつながる、そんなワクワク感も感じます。
ちがいを超えて
来館者参加型のサイエンスがこれからの鍵になると話すのはロボティクスや義足を専門とする遠藤さん。マイノリティな人に必要な技術や、いわゆる”流行り“ではない研究は、アカデミックな世界ではなかなか広がりにくいこともあると言います。だからこそ、未来館のような多様な人が訪れる場所が新しい科学の生まれる場所になり得るのではないか、という視点が示されました。さらに遠藤さんは、「テクノロジーで解決できる問題は私たちが思っているよりも多い。ただ抱えている問題は一人ひとり違い、だからこそ多くの人が係わる必要がある。」とも話します。
未来館に来れば、研究者がいて、科学コミュニケーターがいて、来館者も含めて一緒に考えることができる。そうした“参加する科学のあり方”をここでは実現できるのではないか、そのような未来への高揚を感じた言葉でした。
菅野さんからは遠藤さんと現在行っている共同研究についてお話がありました。義足ランナーの身体の動きを、カメラだけで三次元的に解析をし、その動きからトレーニングの支援やリハビリのアドバイスができるようなAIをつくる研究です。これまでの姿勢推定の技術は、いわば「標準的な身体」を前提にしてつくられてきました。そのため、義足や義手など、身体の状態が異なる場合には、うまく扱えないことも多いそうです。だからこそ、身体の多様性そのものを前提にしたAIをつくる必要がある。そのためには、実際に義足を使う人たちの動きをきちんと捉え、データとして蓄積していくことが欠かせません。
菅野さんは「みんなでいっしょに研究をする」ということをずっとしたかったと言います。「そうしたデータを、未来館という場で、来館者と一緒に集めていくことができたら」。みんなでいっしょに研究するというあり方が、現実のものとして見え始めているのかもしれません。
「来館者の名前が著者として並ぶ論文を書けたらおもしろい」。にこやかに話す菅野さんの姿と、それにうなずくプロジェクトのメンバー、そして来館者のみなさんの顔をこのブログを執筆しながら印象深く思い出しています。
ちがいは、たのしい。
私たちはふだん、「障害のある人」と「ない人」を分けて考えてしまいがちです。けれど、身体の違いや環境の違いは、いつ自分の身に起こるかわからないものであり、誰しもがそれぞれのかたちで抱えているものでもあります。そう考えると、「ちがい」はどこか遠くにあるものではなく、常に自分のすぐ隣にあるものなのかもしれません。
ちがいがあるままでも、同じ場にいて、同じ時間を過ごすことはできる。そのときに生まれる気づきや問いは、研究者だけではたどり着かないものもあります。また、その場で交わされるやりとりそのものが、新しい知や技術の出発点になることもあるでしょう。だからこそ、プロジェクトがやってきた「みんなでいっしょに考える」「みんなでいっしょにつくる」というあり方には、意味があるのだと思います。そして、その中でしか生まれないやりとりや、その瞬間にしか立ち上がらないものがあるということを、イベントを通して感じました。うまく言葉にはしきれないのですが、研究者と来館者が隔たりなくそこにいて、いっしょに過ごしたあの場の空気だけは、確かに記憶に残っています。
誰かのために用意された技術ではなく、さまざまな「ちがい」をもった一人ひとりが関わりながらかたちづくられていく技術。そのプロセスそのものが、これからの社会のあり方を少し先取りしているようにも感じます。
そして何より、この日いちばん強く残っているのは、ただ楽しかった、という感覚でした。
その「楽しかった」は、ただ場の雰囲気がよかった、というだけではなかったように思います。研究者と来館者が立場を越えて関わり、それぞれの「ちがい」を持ち寄りながら、同じ時間をつくっていく。そのとき、ちがいは埋めるべきものではなく、むしろ新しいやりとりを生み出す種のようでした。だからこそ私の感じた楽しかったという感覚は、ちがいがあることそのものが場を豊かにし、そこから何かが生まれていく過程に触れているような穏やかな高揚感だったのだと思います。
そして、そのような研究のあり方そのものが、このプロジェクトが目指してきたことだったのではないか。
そう思える一日でした。