5月29日に開催したゲノム編集に関するトークイベントの様子をシリーズでご紹介しています。
Part 1では、基調講演の前半、国立成育医療研究センターの阿久津英憲先生の講演の模様をお届けしました。
Part 2では、基調講演の後半、東京大学医科学研究所 公共政策分野の武藤香織先生の講演をふり返ります。
阿久津先生には、ヒト受精卵に対するゲノム編集の利点・欠点や技術的な課題、具体的な方法、最新の研究などについて、医師・科学者の立場からお話しいただきました。
発展途上で多くの課題を抱えているものの、難病の患者さんを救う大きな可能性を秘めたこの技術。
阿久津先生は、講演のまとめで「社会に理解され適切に研究を行うためのルールが必要」とおっしゃっていましたが、日本、そして世界の現状はどうなっているのか、武藤先生とともに、政策・倫理の両面から考えていきます。
遺伝子の改変と「尊厳」
「尊厳」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?人の「尊厳」と遺伝子はどのように関係しているのでしょう?
武藤先生のお話は、「遺伝子改変と尊厳」について、世界の基本的な考え方を確認することから始まりました。
ヒトゲノムの解読が進んでいた90年代、技術のさらなる進歩を見据えて、ヒトゲノムの改変に関する議論もさかんに行われました。
当時発表された、2つの条約・宣言を見てみましょう。
欧州評議会人権・生物医学条約(1997)
第13条
ヒトゲノムを改変するための介入は、予防・診断・治療目的に限り、かつ子孫のゲノムに改変をもたらさない場合にのみ実施できる。
受精卵へのゲノム編集は、将来卵子・精子になる細胞の遺伝子も改変しますから、研究方法によってはこの条項に抵触する可能性があります。
ユネスコ ヒトゲノムと人権宣言(1997)
第1条
ヒトゲノムは、人類社会のすべての構成員の根元的な単一性並びにこれら構成員の固有の尊厳及び多様性の認識の基礎となる。
象徴的な意味において、ヒトゲノムは、人類の遺産である。
象徴的な意味、つまり、遺伝情報は親から子へ、何千年、何万年も前から脈々と受け継がれてきた、という意味で、ヒトゲノムは人類の遺産である。だから、人間社会で生きるにあたって都合のよい遺伝子も、不都合な遺伝子も、丸ごと全部を大切にしよう、というのが第1条の主旨です。武藤先生は暗唱もできるほど、この条文が大好きだと言います。
さらに、同じ宣言の中では、
第11条
ヒトのクローン個体作製のような人間の尊厳に反する行為は、許されてはならない。
とも述べられています。
「ヒトゲノム解析が本格化した頃、人のゲノム改変は、人類の尊厳を総体として損なう可能性があると考えられていました。」と武藤先生。
当時の人々が、ヒトゲノムの改変に対し、極めて慎重な姿勢をとっていたことがうかがえます。
国によって違う考え方
こうした背景を踏まえ、現在、世界の国々はヒト受精卵へのゲノム編集について、どのような対応をしているのか、いくつかの国の例をご紹介いただきました。
例えば、カナダやドイツ、フランスなどの国々は、法律によって明確に禁止しています。先ほど紹介したユネスコの宣言に沿う形です。
一方、何らかの規制はあるものの、禁止もしていないのがアメリカとイギリス。
アメリカは、公的な研究費の投入は禁じていますが、民間の研究費を使った研究に対する規制はありません。
イギリスでは、生殖補助医療全般・受精卵を使った研究に関する法律に従い、届け出をした上で、国の承認を受ける必要がありますが、受精卵に対するゲノム編集そのものは禁止されていません。
さらに、メキシコや中国には規制すらないそうで、それぞれの国が異なる考え方で対応していることがわかります。
今後の世論の高まりや技術の進歩に呼応して、対応が変わる可能性もありますが、現状として、世界の足並みはそろっていないようです。
国際サミットの声明
2015年4月、正常に発生して赤ちゃんになることはないとわかっているヒト受精卵に対して中国のチームがゲノム編集を行ったと発表され、世界中で大きな波紋を呼びました。
同年12月、アメリカ、イギリス、中国の科学機関が中心となって、急遽ヒトのゲノム編集ついて議論する国際サミットが開催されます。
サミットでは現状の問題点を、技術面・安全面と倫理面の問題に分けて整理しました。
技術面・安全面の問題
- 不正確・不完全な編集が起こる可能性があり、技術的な制御が十分でない
- 何世代にもわたって起こる影響が予測できない
など
倫理面の問題
- 将来の世代に影響を残す改変を現世代で行うことの是非
- ゲノム編集技術が富裕層に好き勝手に利用されることで、格差が広まる懸念
など
そして、これらの問題点が解決され、広い社会的合意が形成されない限り、生殖細胞系列へのゲノム編集を臨床利用することは無責任であるという声明を発表しました。
「臨床利用」とは、臨床試験の実施や、実際に病気の治療に用いることを指します。
現在の技術水準、そして、技術をどう扱うかについて社会全体で意見がまとまっていない状態で、受精卵(あるいは卵子・精子)の段階でゲノム編集を施された赤ちゃんが生まれてくるような研究をすることはやめよう、と言っているのです。
また、様々な立場の人が集まって、何度も議論を重ねる必要性も強調しています。
日本の動き
日本では、ゲノム編集に関する法規制はないものの、遺伝子治療に関する指針の中に、「受精卵の遺伝子改変を認めない」ということが明記されています。
しかし、ゲノム編集技術の急速な進歩を受け、国際サミットとほぼ同じ頃、具体的な議論が始まりました。
今年の4月に、武藤先生、阿久津先生も委員として参加されている、内閣府の「生命倫理専門調査会」が、ヒト受精卵へのゲノム編集に関する日本の方針を「中間まとめ」として発表しています。
まず、ゲノム編集を行った受精卵を子宮に戻さないような研究(基礎研究)については、以下のような見解を示しています。
容認の方向
- 胚の初期発生、発育(分化)における遺伝子の機能解明
- 遺伝性疾患、その他疾患の治療法
(ただし、他の代替手段があれば、ヒト受精胚を用いる社会的妥当性はない)
一律に社会的妥当性があるとは言えない
- 疾患とは必ずしも関連しない目的(エンハンスメント(増強)など)
※研究機関の倫理審査委員会で、研究の方法や目的の妥当性を審議すること
※研究実施に際しては、社会に開かれた形で進めることを期待する
これまで、生殖補助医療の研究とES細胞の作製以外では、研究でヒト受精卵を作製・使用することは認められていませんでした。
能力の向上や好みの外見をかなえるための、エンハンスメント的な研究目的には依然として否定的ですが、この見解によって、従来よりも研究の道は開かれたと言えるでしょう。
一方、ゲノム編集を行った受精卵を子宮に戻す研究(臨床利用)については
- 現時点では容認しない(「研究においてこえてはならない一線」)
- 国際サミットの見解は、国民一般においても共通認識を持つことができるのかを広く問いたい
としています。
また、日本遺伝子細胞治療学会、日本人類遺伝学会など、関連4学会も、ヒトの生殖細胞や受精卵に対するゲノム編集の臨床利用(お母さんの胎内に戻す)を禁止するよう国に要望する提言を発表しています。
これは、一部の再生医療や不妊治療のクリニックが暴走し、「ゲノム編集」と称して詐欺まがいの診療を行うことを強く懸念しているためです。
「この提言が抑止力として機能するために、一般の私たちが専門家の懸念を知ることが大切」と武藤先生は言います。
ゲノム編集の適切な利用を進めていくためには、私たち一人一人の意識も重要なのです。
私たちはこれから、何を考えるべきなのだろう?
武藤先生は、中間まとめについて、「個人の感想だが、あまりに時間がない中の議論で、国際情勢を後追いしただけの形になってしまった。次世代以降の影響に関する倫理面の検討ついてはできたと思えないので、これから続けていく必要がある。」と話します。
また、議論の出発点として、「改変する必要があるのは、遺伝子なのか社会なのか?」という、科学ジャーナリストの粥川準二さんの言葉を引用しています。
「弱い立場の人をもっとあたたかく迎える社会になれば、遺伝子を改変する必要はなくなるかもしれない。本当に受精卵の改変までしなくてはいけないのかを考える必要がある。
次世代に影響を残すような遺伝情報の改変に対し、人々はずっと畏怖の念を抱いてきた。人の尊厳を損なわない治療の道があるとしたら、それがどんなものなのか、考えることが必要。」
みなさんは、ヒト受精卵へのゲノム編集についてどのように考えるでしょうか。
中間まとめが発表されて以降、国内では、市民と専門家の初めての対話の場となった今回のトークイベント。まだまだ議論は始まったばかりです。
国際サミットや内閣府の中間まとめ、関連4学会の提言が示すように、さらに多くの人を巻き込んで、幅広い視点から考える必要があります。
みなさんの考えをぜひコメント欄でもお寄せ下さい。
次回は、参加者のみなさまを交えたディスカッションの様子をお届けします。どうぞお楽しみに!
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