みなさん、はじめまして!科学コミュニケーターの小幡と申します。
私の専門は運動制御学といって、人間がどのようにして自分の身体を操っているのかについて、これまで研究をしてきました。特に楽器演奏に興味があって、なぜプロの演奏家はあんなに正確で美しい演奏ができるのか、運動制御の観点から研究をしていました。
・・・ですが、今回はスポーツコミュニケーターとしてお届けします。
実は、第1回を担当した科学コミュニケーターの片平と同じく、私も中学高校時代、陸上競技部に所属しておりました。それなりに、がんばっていたんですよ、それなりに・・・ね。
というわけで、スポーツコミュニケーター小幡が第2回を担当いたします。
さて、4年に1度開催されるスポーツの祭典のほか、世界選手権など大きな大会が開催されるたびに、世界記録が更新されたニュースを目にすることがあるかと思います。
そこでみなさん、一度は疑問に思ったこと、ありませんか?
人間は、どこまで記録を伸ばすことができるのだろう・・・?
私も、思いました。
そして、ほかにもそういう思いを持った方々はけっこういるみたいです。
100mの世界記録と統計に基づく記録予測
今回は人間の速さの限界に挑戦している競技のわかりやすい例として、陸上競技の100m走を取り上げたいと思います。
現在の世界記録は「9秒58」。ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、この記録はジャマイカのウサイン・ボルト選手が打ち立てた記録です。
実は、この9秒58という記録、科学の世界では「驚異的な」記録と見られています。
統計学の手法を使って、記録の予測を行った研究者たちがいます。
どうやって予測するか簡単に説明すると、過去の世界記録のタイムを年代ごとに並べて、データに最もよく当てはまるような線を引きます。
そのようにして得られたデータと、これまでの世界記録の更新ペースを考えると、9秒7を切るのは2030年前後、ボルト選手の記録である9.6を切るような走りは2030年よりももっと先の未来であるという予測でした。
ですが・・ボルト選手はその予測された記録をとてつもなく早く塗り替えてしまいました。
ボルト・・・すごい
単純な反応ですいません。。
では、この記録はどこまで伸びるのでしょうか。
(ボルト選手自身は9秒5は切れると言っていました。)
科学者たちは、この統計学を駆使した人間の記録を予測する中で「限界」についても考えています。人間の記録はどこまでも伸びるというわけではなく、いつか「頭打ち」になるはずである、ということです。
米国スタンフォード大学のマーク・デニー教授が実験生物学の専門誌Journal of Experimental Biologyに発表した論文で、1920年代以降の世界記録の推移を調べて「頭打ち」になるような統計的モデルのあてはめたところ、100m の限界は9秒48だったそうです。
*ちなみに、マーク・デニー教授が用いたモデルは、犬や馬の記録をもとにしています。アメリカやヨーロッパでは、スピードを競わせるためにグレイハウンドという種類の犬や競走馬のサラブレッドに人為的な交配が長年にわたり行われてきました。デニー教授はこれらの犬やサラブレッドのレースタイムを1800年代から調べ、それぞれの最高速度を算出したところ、1970年代にはすでに「頭打ち」になっていたそうです。これらのデータを元に「頭打ちになるような」モデルを算出し,過去の男子100mの世界記録の推移「タイムの伸び」をあてはめると,「最も当てはまりがよい」ことから,タイムの限界の予測も正確ではないかと考えられています。
9秒58を出したボルト選手のタイムからデニー教授が予測したタイムの限界までは,あとわずか0.1秒しかありません。
デニー教授は「人間の全般的な潜在能力は無限であるが、限界はあるはずだ。特に、速度については明確に限界がある。ただし、どこまでなのかは分からない」とも言っています。限界のタイムを予測したにもかかわらず,「限界がどこまでなのかは分からない」,とデニー教授が言っているのは,実際に人間のタイムがまだ進化し続けているからだと思われます。
さて、・・・ここまでの話は、すべて統計学のお話です。
100mの記録には限界が見えているようにも感じますが、それは100mのタイムの推移とそれに当てはまるような計算をしているだけ、とも言えます。
そこで、他の要素を考えたものはないものか──調べてみました。
限界を予測するために、他の要素を考慮に入れる
たとえば100メートル走はスタートから加速までの「前半」、加速したスピードに乗って走る「中間」、最後までスピードを保ってゴールする「後半」という具合にだいたい3つの区間にわけることかできます。
選手によって、スタートが得意な人もいれば、加速からゴールまでが速い人もいます。
この点に注目して、100 m の記録を10メートル単位で分けた後、区間別最高記録を足して仮想の最高記録を導き出した科学者もいます。出発ライン-10メートル区間はキム・コリンズ(米国)、20-30メートル区間はモーリス・グリーン(米国)、残りの区間はボルトの記録を合算すると、最高記録は9秒35まで縮められます。
単純な計算方法ですが、スタートダッシュから、中間疾走、フィニッシュまでのそれぞれの人間の最速を足したわかりやすい記録です。
ボルトがスタートダッシュを磨けば(もしくは他の選手が加速や後半のスピードの維持を今よりも速くできれば)このタイム、いけそうな気がしません?
さらに、スタートの反応速度についても重要です。スタートの合図を耳にしてから実際に走り出すまでの速さです。ボルト選手が世界記録を更新した際のスタート反応の速さは0.146秒。これより速い選手ももちろんいます。
ティム・モンゴメリ選手(米国)はスタートの反応時間が0.104秒(2002年、パリ世界陸上)でした。
この反応速度分の差(0.042秒)をボルト選手が埋めることができれば、自身の記録は9秒54まで短縮できるはずです。
人間の聴覚の反応速度(耳から入った音信号に対して人間が反応できる速さ)はだいたい0.1秒とされていますが、もう少し速い反応ができるはずだ、と主張している研究者もいます。
さて,人間が速く走るためには,推進力が重要です。
走る際の推進力は,重心の位置が前方にある状態,つまり身体が前方に傾いた状態で,地面を蹴ることによって生み出される力のことです。
では、ヒトが走る際の推進力に限界はあるのでしょうか。
米国南メソジスト大学のウェイアンド教授のグループは、ヒトの基本的なランニング動作の仕組みに関するいくつかの研究から、ある程度人間の限界についての説明が可能であるとしています。ウェイアンド教授は7名のトップアスリートにトレッドミル(ランニングマシン)で走ってもらう研究をしました。速さを楽な程度からトップスピードまで変化させ、走っている際の地面反力(地面を蹴る力)と接地時間を計測したのです。すると、スピードが速くなるほど地面反力が大きくなる一方で、接地時間は短くなることがわかりました。この結果から、筋肉の収縮の速さの違い(走るスピードが速くなるほど収縮が速くなり、強い力を生み出します)と、それによって生み出される地面反力、ヒトの足の骨格および関節の動きのモデルを当てはめると、最も強い地面反力を生み出すために必要な最小限の接地時間の限界を予測することができます。一般的には接地時間を長くすれば大きな地面反力を得られるのですが,走る際には接地時間が長くなるほどピッチ(脚の回転の速さ)が遅くなり、タイムが悪くなってしまいます。つまり,速いピッチで強い地面反力を生み出すことが大切なのです。
人体の構造上、これ以上、接地時間を短くできないという限界点がわかれば、トップスピードの限界も自ずと決まります。この研究では,人間の100mを走っている際のトップスピードは時速50km を超えることは難しいそうです。(ボルト選手のトップスピードは時速44 kmですので、現時点ではまだタイムの更新の余地は残っていますね)
では、同じような筋肉の繊維構造を持っている動物がヒトの何倍ものスピードを生み出すことができるのはなぜでしょうか。ウェイアンド教授によると、4本足で走っていることも重要ですが、特にチーターや前出のレース犬のグレイハウンドは他の動物よりも走っている際の接地時間を長く保てるように身体を適応させたことで、強い地面反力を得て推進力を生み出すことができるのだそうです。
さて、人間についてのいくつかの要素を考慮に入れた結果、100mを走る人間の限界が見えてきた気がします。
しかし、これだけでしょうか。
たとえば
選手のはいているスパイクシューズは?
実際に走っている陸上競技のトラックの素材は?
走っているときの風の状況は?
他にも要因がありそうですよね。
その要素が複雑に関係して最大のパフォーマンス(世界記録)につながるはずです。
ですから、私は単に過去の結果から人間の限界を予測することは難しいと考えています。
現にボルト選手はその予測を覆したわけですしね。
みなさんはどう思います?
これまで人間の限界の予測について紹介してきましたが,今のところ実際に「これ以上超えられない」という記録はまだないはずです。
その限界がやってくる日は来るのか・・
これからも考えていきたいと思います。
【ブログリレー"スポーツコミュニケ-ターはじめました"について】
2020年に控えているビッグイベントを科学の視点から楽しみたい!という思いで始まった連載です。よろしければ、以下のページから他の記事もご覧ください!(「スポーツコミュニケーター」でご検索ください。)