前編はこちら: https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/2025121715-1.html
この特別授業の大きな特徴は、あらかじめ決まったゴールに向けて進行するのでなく、生徒たちの反応を受けて、内容がその都度更新され続けること。ですから、全部で4回の授業のゴールは、彼らと一緒につくっていくことになります。ここまでの2回の授業をもとに、臨海青海特別支援学校の先生方やデバイスを開発している「身体性メディアプロジェクト」の研究者と相談した結果、私たちは「『おくるん・もらうん』によるコミュニケーションを音楽に昇華させること」を授業全体のゴールとすることに決めました。
このクラスの生徒たちは、もともと音楽が大好きです。伝えたい気持ちが音や振動になり、リズムになり、そうやって生まれた音楽が、生徒たちの「誰かと伝え合うのって楽しい!(もっとコミュニケーションしたい)」という思いを呼び起こすのではないかと考えました。
3時間目「気持ちを音楽に変える」
この回は、「音楽をつくる」の第一歩です。「おくるん・もらうん」を使うことで、今の自分の気持ちが音になり、それをみんなで共有しあうことで音楽が生まれることになります。
授業ではまず、「たのしい・かなしい・びっくり」という気持ちにそれぞれ対応した3種の音色から、今の気持ちに一番近いものを生徒たちに選んでもらいました(ちなみにこのときは、「たのしい」音色が選ばれました)。それから気持ちの程度(ちょっと楽しい・まあまあ楽しい・すごく楽しい)を「おくるん」で送る回数で表現します。こうしてリズムが生まれるのですが、「もらうん」でリズムを受けとった隣の人が同じようにしてその隣の人にリズムを渡し、そのまた隣の人に……という感じでリレーしていくことで、「みんなの音楽」になっていくわけです。
ところがどっこい、そうスムーズにはいきません。私たちは当初、練習を重ねるにつれて生徒たちは少しずつ上達し、やがてみんなで一定のリズムを奏でられるようになると想定していました。しかし実際には人によってリズムも回数も見事にさまざまで、そこで奏でられた音の群れは「一定の回数・間・順序」のリズムとは程遠い前衛的なものでした。それはなんというか、私たちの解釈の容量を超えた、無秩序状態でした。
このとき私ははっきりと、失敗したと思いました。授業の設計云々よりもなによりも、生徒たちが楽しくなさそうだったからです。根本的になにをやっているのかよくわかっていないといった様子でした。「これはなんとかしなければ」ということで、授業が終わってすぐに大ベテランの松本先生に相談しました。その際、先生からうかがったお話が、今でも胸に残っています。
「生徒たちの多くは、なにかを模倣することが苦手。彼らが奏でる音楽は、一定のリズムにのれているかという点では確かに満足のいかないものかもしれない。しかし見方を変えると、生徒によってバラバラな音や間合いこそが彼らなりの表現であり、“彼らの音楽”なのではないか。それを肯定する別のやり方を試してみてはどうか。」
目が覚める思いでした。目の前の生徒たちに向けて授業をしていたはずなのに、いつしか私たちは“ちゃんと”授業を進めようすることに囚われ、「自分たちにとっての音楽像」を押し売りしてしまっていたのだと反省しました。奏者によってまったく違う味わいを生むスタンダードナンバーさながら、音楽は本来誰でも自由に奏で楽しめるもののはずです。生徒たちからまたひとつ大切なことを教えられました。
この一件を通じてようやく、私は“真に”彼ら一人ひとりと向き合い始めることができたように思います。この授業における「生徒たち」は、臨海青海特別支援学校中等部3年生という抽象的なグループではなく、ここにいる15人の具体的で個性豊かな生徒たちです。
4時間目「“この15人”だけの音楽をつくる」
ほかでもないこの15人、このクラスだからこその音楽をつくる。全生徒が音楽づくりに参加できるようにするために、生徒たちの取り組み内容をシンプルにしました。4人チームになって、ひとつの「おくるん」をシェアすることにより、腕につけている「もらうん」で全員が音・光・振動を常に感じることができます。教室全体の手拍子のリズムをベースに「○○さん(次の人の名前)・楽しいね・はい!」の掛け声で順番に「おくるん」で信号を送りながら次の人に渡すというかたちで、そのチームの“ノリ”を生みだすことにしました。決まりごとでがんじがらめにせず、かといって完全に自由にしてしまわないことで、“この15人だけの音楽”をつくろうと試みました。
一通り練習できたら、チームごとに前に出てきて発表会です。実際にお聴かせできないのが残念で仕方ないですが、個性豊かな音楽的表現がつぎつぎに飛び出しました。なにより、今回は生徒たちが“ノって”いるのを感じられたのが嬉しかったです。
続いて、この発表会の演奏を下地に、「身体性メディアプロジェクト」の研究チームが中心となって「みんなの音楽」を制作しました。4つあるチームそれぞれの(間合いや音数などさまざまな)様子の録音が音声編集技術によってつなぎ合わされて完成した、一人ひとりの音楽的表現の結晶としての「みんなの音楽」です。
さあ、日を改めていよいよグランドフィナーレです。「みんなの音楽」にあわせて、「おくるん・もらうん」大演奏会を開催しました。リズムに合わせて「おくるん」を奏でる生徒、座って手拍子する生徒、一人で自由に「おくるん」で演奏する生徒、立ち上がって踊りだす生徒、歌を歌う生徒、休憩する生徒、隣の人にちょっかいを出す生徒……。それぞれが思い思いの方法で参加しました。いつしか自然と生徒たちが教室の中を動き回り、いろんな場所で集まっては離れてという連続的な運動が生まれました。うまく表現できないですが、なんというか、よろこびの原液のようなものが人と人の間でまっすぐにやりとりされる、純粋で多幸的なコミュニケーションの誕生の瞬間に立ちあったような気分でした。心が“ぶるぶる震えた”のは、きっと私だけではなかったと思います。
「おくるん・もらうん」をきっかけに出会えたみんなとの、あの場限りのセッション。あの15人だったからこそ、あのクラスだったからこそ生まれた「あの音楽」は、どこのストリーミングサービスでシェアされることもなく、あの時間の中を流れ続けます。
大盛り上がりのうちに、最終授業は終わりました。「きをつけ、れい!」と元気にあいさつをしませ、生徒たちは次々に教室を後にします。最後の一秒までスリル満点の授業を、生徒たちと走りきりました。授業をふり返ると、相手のことを意識しながら気持ちを送ることができた生徒や、ほかの生徒からの呼びかけに気づくことができた生徒がいて、ノンバーバルコミュニケーションにおける「おくるん・もらうん」の可能性を感じました。それから、生徒たちが「おくるん・もらうん」という名前を覚えるほどこのデバイスに親しんでくれたこと、また、この授業を通じて科学技術や未来館に親しんでくれたこと、そして授業に楽しそうに参加してくれたことが、なによりの成果だと思います。
「この授業が、彼らにとっていい思い出になるといいな」――。
そんなことを思いながら、教室を出ていく生徒たちの後ろ姿を名残り惜しい気持ちで追っていると、最後まで残ったある生徒から声をかけられました。声のほうに顔を向けると、そこに立っていたのは、初回の授業で泣いてしまったNさんでした。
「ねえ、また来る?」
それは、ほかのだれでもないNさんの言葉でした。おこがましいかもしれませんが、その瞬間、私はNさんと通じ合えたような気がしました。このうれしさはNさんとの間に生まれたかけがえのないもので、「特別支援」とか「中学三年生」といった抽象的な言葉にまとめてしまうと消えてなくなってしまうものです。先に教室を去った生徒たちは「トイレ行きたい」とか「休み時間なにしようか」とか、きっと別のことを考えているでしょう。ひょっとすると「授業つまんなかった」と思っている生徒もいたかもしれません。それでいいし、そんな15人に出会えてよかったと思います。
「また会おうね」と返事をして、ハイタッチをしてNさんと別れました。うん、きっとまた会える。そう思います。