「ねえ、この子は、なにを歌っているの?」
もう何年も前のある日、未来館の常設展示場でとある方から投げかけられた言葉です。それは、「パロ」という赤ちゃんアザラシ型ロボットを食い入るように見ていた、小さな女の子からの問いかけでした。
わたしは、それを聞いてたまげました。なぜなら、「わたしにとってのパロ」は、呼びかけると「むおん!」と(わたしには聞こえる)声をあげて返事をしてくれるものの、その声は単発的で、とても歌と呼べるような音の連なりではなかったからです。しかし、彼女にとってはそうではありませんでした。「なにを歌っているの?」という問いかけから、彼女にとってパロが歌っていることは明らかで、その上で「なにを歌っているか」が疑問の焦点でした。
なにをもってわたしはそれまで、パロは歌わないと思い込んでいたのでしょうか。そもそも、声をだすことと歌うことの間の境界は、どうやって引かれるのでしょう(それは、ほんとうに存在するのでしょうか?)。遠い昔にイタリアに渡ったとき、土地の言葉が美しいメロディのように聞こえたことを思い出します。ひょっとすると、パロは鳴いてもいるし、歌ってもいるのかもしれません。
思いがけない他者との出会いは、物事の境界線を揺るがし、聞き慣れた音や見慣れた風景に新鮮さをもたらしてくれるものです。彼女のきらきらした瞳のその先に、いったいどんな世界がひろがっているのだろう――。まるで未知のジャングルの奥地に踏み入るようで、心が動いたことを、今でもよく覚えています。
別のある日、誰かが「つけま(つげ)、すご!」と言いました。
「つけま?!!」とわたしは思いました。
そう、心が動いた。その瞬間わたしは、「未来」の芽吹きを感じたのです。それはどういうことでしょう。心を他者と共に動かすことで、思いもよらない「未来」が立ち上がることがある。今日はそんな、未来の話をしてみたいと思います。
そもそも、未来って、なんでしょう?
似た言葉に「将来」がありますが、これらはどう違うのでしょう?辞書を引いてみると、「将来」は、比較的近くやってくる、特定の誰かにこれから確実に訪れる現実的な時間(いとこが1年後に司法試験を受けるとか、年末に賃貸の更新を控えているとか)を指す言葉のようです。一方で「未来」は、もっと遠くて、不特定の人々にとっての未知の可能性に満ちた不確実な時間とのことです。
未知で不確実な、みんなのこれから。だからこそ未来は自由でおもしろいと、わたしは思います。わたしは未来館でこれまで、「未来をつくる」活動を続けてきました。たとえば、わたしたちの暮らしに寄りそう”やさしい”自動運転車が活躍する未来 https://www.miraikan.jst.go.jp/events/202302052837.html、「アバターロボットとしてその場にいる人」と「生身の人」がひとつの場を共有できる未来 https://www.miraikan.jst.go.jp/events/202603074391.htmlなど、いろんな未来の可能性について多様な人々と共に語り考えるイベントを企画してきました。そのなかでわたしが大事にしてきたのが、「みんなでつくる」ということでした。
未来がその定義からしてみんなのものである以上、未来づくりの当事者は、全員です。研究者や社長といった特定の誰かだけでなく、今を生きるわたしたちみんなが主人公となれる仕組みとして、役割や立場を超えて様々な人が対等にあり、それぞれがそれぞれの思いや考えを表現し受けとめあえる場をつくってきました。
たとえば、イベントで何度か実践したのは「哲学対話」という方法です。対話の場に集まった人々が、自分たちで考えたい問いを設定するのが、哲学対話の特徴です。「1モルに含まれる分子の数は?」といった明確な答えが存在する問いでなく、「他の人を幸せにする嘘なら、ついてもいい?」、「どうして同じ紙なのに、折り鶴になると捨てづらいの?」といった、誰も答えをもっておらず、かつ誰もが気になる問いをめぐって、対話します。
教科書に答えはないので、参加者はおのずと自分の頭で考え、言葉を紡ぐことになります。そうして生まれてくる言葉たちは、実にカラフルです。たとえば先ほどの折り鶴の問いの場合だと、「鶴には誰かの特別な思いがこもってるから、捨てがたいのでは?」という発言もあれば、「手紙はずっと捨てられないけど、折り鶴を捨てるのに抵抗を感じたことないなあ」という発言も出てくるかもしれません(いえ、実際に対話してみると、もっともっとびっくりするような言葉たちが飛び出すことでしょう)。問いは同じであるにもかかわらず、人によって、まったく異なる言葉が生まれてくる。わたしたち一人一人は、どうしようもなく、ユニークな存在です。そんな互いに異なる一人ひとりが”共に居られる場”が、哲学対話だといえるでしょう。
哲学者で哲学対話の第一人者でもある梶谷真司さんから「役割があることではじめて居られる場と、役割がないことで居られる場がある」とうかがったことがありますが、職場とも家庭ともちがう「役割がないからこそ”共に居られる”場」が生まれることが、哲学対話のすごいところです。そこに居るのは、「上司」でも「おかあさん」でも「Z世代」でもない、”わたし”たちです。取り替えのきかない人間としての、”わたし”。哲学対話では、参加者それぞれが”わたし”であるからこそ、言葉を生み、互いに交換することができるのです。
最初は戸惑ったりしつつも、時間をかけて普段の役割や立場から自由になっていった結果、参加者それぞれが目の前の問い(あるいは他者)と真っすぐに向き合う景色はどこまでも美しく、豊かでいびつな”人間的な時間”に、胸が溢れそうになります。個性豊かな一人ひとりから成る「みんな」で未来をつくっていることを実感する瞬間です。
人間として生まれた以上、”わたし”が”わたし”であることを引き渡したくない――。それはほかでもない、「いまこの文章を書いているわたし」の願いです。哲学対話もそうですが、わたしがこれまで未来館で行ってきた仕事は、数ある選択肢の中で、「そんなわたしの心」が強く動いた先に生まれたものでした。
心赴くままに、なんていうと身勝手で無責任なようですが、「動いた心」は決してわたし一人だけのものでないと思います。たとえば、イベントのタイトルを決める際、チームの仲間たちとあーでもないこーでもないと散々話し合った結果、ふとした瞬間に「これだ!」というアイデアが出てくることがあります。「これだ!」の源には、きらりとした「わたしの心の動き」があるわけですが、「どのようにしてそう心が動くに至ったのか」については、全く説明できる気がしません。同僚の言葉に引っ掛かりを覚えたのかもしれないし、子どもの頃の嬉しかった記憶をふと思いだしたからかもしれないし、さっき休憩時間に食べたお茶菓子が思いのほか美味しかったかもしれません。なんだかわからないけど、いろんなことが積み重なった結果、たまたまその時そうなったとしか言えないわけで、そう考えると、心は、わたしと周りの人やものが呼応しあった結果、動き・動かされるものなのではないでしょうか。
そうして心導かれる方へと進んでいった先に、おおよそ偶然の一言では片づけられないような、その先の人生を強く照らす出会いが待っていることがあります。わたしにとってのそれは、とあるイベントに登壇してくださった、文化人類学者の磯野真穂さんとの出会いでした。このイベントは、誰かと”お茶する”という何気ない日常の行為から、「わたしたちが人間らしく生きるとはどういうことか」をさぐるもの https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20240412post-509.htmlでした。イベントでの磯野さんのお話からわたしが受け取った「出会った人と人が関係しあい共に時間を築くなかで、”かけがえのない意味”を生みだすことが、”生きる”ということではないか?」という問いかけは、以降のわたしの活動において、心強い”相棒”のようにそばにいて、共に歩み続ける存在となっています。そんな出会いに恵まれたことを、ありがたく思います。
磯野さんの著書『急に具合が悪くなる』は、ご自身にとってまさにそんな「運命的な出会い」の物語です。もう一人の著者であり、磯野さんのパートナーとして往復書簡を紡ぐ哲学者の宮野真生子さんは、がん患者であり、往復書簡の最中に急に具合が悪くなり、お亡くなりになります。外からみると、死というエンドに一直線に向かう物語のようですが、ところがどっこい、未来への希望に満ち溢れた、この二人にしか成し得ない生の物語が展開されることになります(詳細はぜひ本書をお読みください)。
その本がつい最近、映画化され、世界各地で公開中です(映画「急に具合が悪くなる」2026年6月 日本公開)。それを受けて磯野さんは、天国の宮野さんに「ここまで来たよ」と言葉をかけたそうです。宮野さんの死を超えてなお、今でも磯野さんと宮野さんの物語は、続いているのです。
出会いは、なにかのはじまりです。
磯野さんと宮野さんが”出会ってしまった”ように、わたしも磯野さんとどうしようもなく”出会ってしまった”。まるでなにかに引き寄せられるように。予期せぬゲストを、自分の人生のなかに引き受け、その後の時間を共に生きていく。ご一緒したイベントを振り返って磯野さんが、「(参加者やスタッフ含め)「みんなでつくった」という言葉がぴったりのイベントでした」と言葉をかけてくれたことを、わたしは忘れません。あれから2年の月日が経ちましたが、つい先日当時の企画チームみんなで集まって映画を見に行き、思い思いに話をしました。今回は磯野さんに代表してもらいましたが、あのときのイベントを巡る出会いの数々が、今でも鮮やかに息づいています。不思議なほどに、あれもこれも、これからも続いていきそうです。出会った当初は、思ってもいなかったかたちで。きっと、これは、終わりのない物語だと思います。
まさかこんなことになるなんて。5年前に未来館に入職したときは想像もできなかった道が、今わたしの目の前にひろがっています。数えきれない出会いが、わたしをここまで連れてきてくれました。
みんながいるから、わたしはわたしであることができる。そんなふうに思います。たとえばこの文章だって、ある仕事仲間が「書いてほしい」と言ってくれてはじめて、「じゃあやってみようか」と思えたものです。それと、執筆者こそわたしですが、これまでにいろんな人からもらってきた言葉たちのパッチワークでできあがっているわけで、どう考えてもわたし一人では成し得なかったものです。
わたしにできることは、「この心」に責任を持ち、心が動いたあれこれの”より良いブレンディング”に努め、無数の出会いから成る「いまのこのわたし」を、世の中に向けて表現し続けることです(たとえば今こうして、言葉を紡いでいるように)。みんながわたしに、そうする勇気をくれました。心に残る人たちに背中を押され、まだ見ぬ出会いに満ちた未来に期待をし、これから先に向けて行動を起こし続けることができるのです。
未来は、わたしがほかでもないわたしであり、かつ他者と共に変わりつづけながら、築き続けるものである――。これはあくまでわたしの今のところの「未来観」に過ぎませんが、きっと世界にはもっともっと無数の可能性がひろがっているはずです。
あなたの未来は、どんなふうですか?
いつかどこかで出会ったら、話をきかせてください。
未来が、たのしみです。
さあ、今日はなにが待ってるかな。
彼らの未来を、わたしは知りません。
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