展示について深く掘るブログ、今回は脳とこころに関する5階常設展示、「ぼくとみんなとそしてきみ―未来をつくりだすちから」の世界を掘ってゆきます。「こころ」は脳の働きによるものだといわれますが、具体的に脳はどんな働きをしているんでしょうか? 何か機械的な作業をしているのでしょうか? それとも魂の入れ物……? 人体図鑑を開くと脳の地図が描かれていて、記憶や感覚など、場所によって異なる役割があるとされていますが、なぜそんなことがわかったのでしょうか?
突然ですが、皆さんは幽霊を信じますか? 私は今ではあまり信じていませんが、子供のころは幽霊が怖かったです。怖いのでどうしたかというと、少年の私は幽霊の存在を否定しようと試み、その根拠について考えました。「幽霊とは、死んだ人の体から「こころ」だけが分離したもののようだ。でも生きている人のこころは、脳の活動によるものらしい。楽器もラジオもなしに音楽“だけ”が奏でられないのと同様に、脳なしにこころ“だけ”が存在することはできないはずだ・・・だから幽霊はいない!」
幽霊の存在論はさておき、今回は、そんな「こころ」をつくる器官、「脳」の深遠なる世界について、ほんの少しだけお話したいと思います。
「こころ」に部分がないのに、「脳」に部分があるのはヘンじゃない?
未来館の5階常設展示、「ぼくとみんなとそしてきみ―未来をつくりだすちから」は、絵本の中に入り込んだようなしかけを通じて、人間の脳のしくみや社会との関わり合いを学ぶことができる展示です。入口から入って突き当りにあるのが、五感を通じて入ってきた情報が、脳の中でどのように伝達・処理されているのかを表した展示です。この展示と似たようなイラストは子供向けの人体図鑑などにもよく出てくるので、比較的なじみがあるものかもしれません。
例えば、後頭葉と呼ばれる部分で処理された視覚情報が、海馬と呼ばれる場所に送られ記憶をかたちづくる、といった説明がされています。
しかしですよ、ちょっと待ってください。脳の場所ごとに「働き」が違うってどういうことでしょうか。手で触り心地を感じたりお腹が痛くなったりするときは、確かに手やお腹という特定の場所に何かが起きているという自覚がありますが、ものを見ているときに、「頭の後ろのほう(視覚野)で見ているなぁ」とか、頑張ってテスト勉強しているときに「頭の奥(海馬)が火照るなぁ」なんて感覚はありませんよね。それなのに、「こころ」をつくっている「脳」には、役割の異なる「部分」があるなんてこと、納得できますか? そもそもどうやって、脳のある部分に特定の機能があるなんてわかったんでしょうか?
「ありのままを見る」なんてできない!
とはいえ、脳の機能はあまりにも多岐に渡りますし、わかっていないこともあまりにも多いのが実情です。今回はヒトの大脳の機能のなかでも特に大きな割合を占め、しかも比較的研究が進んでいる「視覚」に注目してお話をしたいと思います。
さて、「見る」という行為は、目に映った「ありのままの現実」を「わたし」が認識していると素朴に考えていませんか? しかし、そうではないという証拠は皆さん自身でも簡単に得られます。例えば錯視。動いていないはずのものが動いて見えたり、実際には平行な直線が曲がって見えたりします。
日常生活でも、ふと時計を見た時に秒針が妙に長い間止まって見えたり、液晶画面上の文字が少し浮いたり、奥まったりして見えることがありませんか?
なぜこんなことが起きるのでしょうか? それは、「わたし」が見ているものは、目から入ってきたありのままの情報ではなく、脳の中で情報処理されたものだからです。物理的な現実と、目から入ってきた情報をもとに脳でつくられたイメージがきちんとシンクロしているおかげで私たちは日常生活を送ることができます。しかし、その情報処理も完璧ではなく、両者の間にズレが生じることがあります。そのズレが錯視や幻覚というわけですね。
「見る」がいくつもの機能に分解できる?
では、具体的にどのような情報処理がされているのでしょうか。まず眼球の網膜に映ったイメージが、視床と呼ばれる場所を通って、大脳の一次視覚野と呼ばれる領域に送られます。そこからさらに大脳の様々な部位に情報が送られ、図形的特徴の抽出、自身との位置関係、記憶情報とのすり合わせなどが行われます。言ってみれば「わたし」は、脳によって「調理済み」の映像を見ているのです。
さて、最初の疑問に戻りますが、なぜ脳内の場所によって、さまざまな役割が分担されていることがわかったのでしょうか?
別の生物学分野である遺伝学の世界では、ある遺伝子の働きを知るために、その遺伝子を破壊したり、働きを抑えたりする実験をよく行います。「ショウジョウバエのある遺伝子を破壊したら目の色が赤から白に変わった。この遺伝子は目の赤い色素をつくることに関係しているにちがいない」といった具合です。
脳の場所ごとの働きも、同じアプローチで知ることができます。もちろん健康な人間の脳の一部を破壊するような実験は行えないので、脳梗塞や外傷で脳の一部を損傷した患者の臨床データが手がかりとなります。
膨大な臨床データが明らかにしたのは、「見る」という行為が、それぞれ脳の特定の場所に割り当てられたさまざまな機能に支えられているということでした。先ほど「わたし」が見ているものは脳が「調理」した映像だと言いましたが、調理に例えるなら”キッチン”の持つ、”洗う”、”加熱する”といったさまざまな機能が、”シンク”や”コンロ”といった特定の場所に割り当てられている様子に似ています。
例えば、大脳皮質の下側にあるLOCと呼ばれる場所が壊れた場合、視覚そのものは損傷せず、見せられた絵を模写することさえできるのにもかかわらず、その物体(例えばカスタネット)が何であるのかがわからなくなります。記憶の損傷ではない(カスタネットに関する記憶を忘れたのではない)証拠に、物体に直接手で触れたり、その物体が発する音を聞いたりすれば、それが何であるか(それはカスタネットであること)はわかります。
また、側頭葉の下部にある紡錘状回と呼ばれる場所を損傷すると、たれ目、わし鼻など、人間の顔の図形的特徴そのものは認識できるのにもかかわらず、近しい人の顔を見てもそれが誰なのか判別できなくなります(相貌失認)。
さらには頭頂葉の視覚をつかさどる場所が壊れると、物体や人の認識、識別はできるのにもかかわらず、視覚情報と自分の肉体の三次元的な位置情報をシンクロできなくなります。例えば、目の前にあるコップの位置が自覚できているにもかかわらず、それをつかむためにどう手を動かせばよいかわからない、といったことが起こります。
このようにして、私たちがふだん“ひとつの体験”として感じている視覚が、実は脳の場所ごとの多様な情報処理に支えられていることがわかってきました。近年では、脳のどの場所が活発に働いているかを可視化する技術(fMRI)なども使われています。
人のこころは機械仕掛け?
認知科学や神経生理学の発達により、「機械」とは最も遠い存在に思われる私たちの「こころ」が、ある種の機械仕掛けであることが次々に明らかになっています。とはいえ、脳の世界はまだまだわからないことだらけです。特に、「バラの鮮やかな赤色」のような生々しい主観的な体験と、脳の機械的なメカニズムがどう結びつくのかという難問は、どうやってアプローチすれば解決できるかさえ、まだまだ手探りの段階です。
ちょっと知るのが怖い気もする、脳とこころの科学、これからも目が離せませんね。
参考文献
「脳はなにを見ているのか」藤田一郎
「あなたの知らない脳」デイヴィッド・イーグルマン
「心の仕組み」スティーブン・ピンカー