江戸の博物学と呼ばれる「本草学」と、江戸時代の読書事情について、国文学研究資料館教授の入口敦志さんと、人間文化研究機構総合情報発信センター研究員(人文知コミュニケーター) で、国文学研究資料館 特任助教でもある粂汐里さん、そしてわたくし日本科学未来館の科学コミュニケーター福井智一の3人でお送りしたオンラインセミナー「和書からさぐる!お江戸のサイエンスとライブラリー」(2020年8月9日開催)。前回の記事では、参加者の方々からお寄せいただいた質問のうち、江戸の百科事典『和漢三才図会』にまつわるものをご紹介しました。
第二弾となるこの記事では、和本の歴史にまつわる質問にお答えしてゆきたいと思います。
Q&Aブログ第一弾はこちら https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20200831post-359.html
最古の印刷物、『百万塔陀羅尼』
日本は諸外国に比べても、古い本がたくさん残されていると言えます。現存する最古の印刷物は、奈良時代につくられた『百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)』。陀羅尼と呼ばれるお経を印刷した紙を小さく丸めて、てのひらサイズの仏塔の中に納めてあり、百万基が薬師寺や東大寺などの諸寺に収められました。つくられた時期の記録がはっきり残っている印刷物としては、世界最古のものになります。
質問:何のために陀羅尼を作ったんですか?なぜ塔にする必要があったんでしょうか。
入口教授:陀羅尼はお経のなかでも、サンスクリット語を意訳せず音を漢字に置き換えた、いわゆる音訳されたものです。呪術的な意味があったものです。鎮魂や国家の平安の祈る意味があったと思われます。塔についてはわかりません。
福井:仏塔は仏舎利(=釈迦の骨)を祀るためのものですが、インドで仏舎利が不足したので、代わりに経文などが用いられるようになったという経緯があるそうですよ。
質問:印刷は仏教からスタートしたのですか?
入口教授:中国(唐)や朝鮮(高麗)、日本(奈良時代)でも残っている初期の印刷物は仏教に関するものばかりですので、そう考えて良いと思います。
さまざまな和本のスタイル
イベントでは国文学研究資料館からのライブ映像配信で、古い順に様々なタイプの本を紹介しました。最も古いタイプが「巻子本(かんすぼん)」、いわゆる巻物です。これは作るのは簡単ですが、読むのが大変です。次に古いのが「折本(おりほん)」、長い紙をジグザグに折りたたんだ本です。巻物と違って、任意のページに素早くアクセスできるのが特徴で、今でもお経に使われています。古い折本もほとんどがお経だそうです。次が「粘葉装(でっちょうそう)」、重ねた紙の端を糊で固めたものです。次が「列帖装(れつじょうそう)」、真ん中に折り目をつけた紙を重ね、折り目を糸で綴じたものです。今でも薄手のパンフレットやノートによく使われています(現在は糸ではなくホチキスで綴じたものがほとんどですが)。最後に現れたのが「線装本(せんそうぼん)」。紙を二つ折り(いわゆる袋とじ)にして糸で端を綴じたものです。しっかりと綴じることができ、古くなったら自分で糸を張り替えることもできました。江戸時代の出版物で最もポピュラーだった綴じ方です。
質問:巻子本が情報の貴重度や格式としては高いと聞いたことがあるのですが、その他の綴じ方でランク付け(?)するとどんな順になりますか?
入口教授:歴史的な出現順に、古いものほど格式が高いと考えて良いでしょう。およそ、巻子本>折本>粘葉装>列帖装>線装本、の順になります。日本文化においては、古いものほど(時間軸)、そしてより遠くに由来する(空間軸)ものほど権威が高い、という一種の約束事があります。したがって、書物に関する権威の格付けは以下のようになります。
漢字 ≧ カタカナ(外来語) > ひらがな (空間軸+時間軸)
漢語 > やまとことば (空間軸)
写本 > 刊本 ( 板本 > 活字本 ) (時間軸)
筆 > ペン > 印刷 > デジタル (書簡、年賀状などにあてはめてみるとわかりやすいと思います)
これらを組み合わせれば、書物の持つ権威はあらかた整理できます。書物で最も権威を持つものは、漢文で筆写された巻子本ということになります。江戸時代には、嫁入り本というものがありまして、大名家クラスの婚姻の際、嫁入り道具として持っていくべき書物があったのですが、それは必ず写本で、良いものは巻子本、少し落ちる物で列帖装、更に下に線装本というような格付けがあったと考えられています。
江戸初期の活版印刷「古活字」について
入口教授の話の中でも反響が大きかったものの一つが、江戸時代初期(17世紀初頭)につくられた日本初の活字本でした。活字と言えば1文字で1ブロックというのが私たちの常識でしたが、古活字とよばれるこの時代の活版印刷では、連綿体とよばれる崩し字の書体を実現するために、1文字で2文字分のブロックを占める活字や、複数の文字がつながった連続活字が使われていました。必然的に古活字の版はパズルのような複雑なものになり、組みの煩雑さや、再版時に一から版を組みなおす手間から17世紀の中ごろに途絶えてしまいました。テクノロジーが逆行するように、以後江戸時代の終わりまで、一枚の板に文字を彫って印刷する木版印刷が主流となります。そんな古活字に関する質問。
質問:連続活字となると、この文書しか印刷できないということですか?いわゆる活字のように他の文書を印刷するときにはまたそれ専用の活字を作ったのでしょうか。
入口教授:ひらがなを用いた古活字版では他のタイトルの印刷にも使われています。連続した活字は、よく出てくる汎用性の高いものが多いのです。例えば、「して」「あらす」などがそうですね。
質問:標準の活字セットのようなものがあったのでしょうか?
入口教授:ひらがなの活字については標準の活字セットという考え方自体が、江戸時代の初期にはなかったと考えられます。漢字の活字については朝鮮半島からもたらされ、それを手本に製作していたようですが、ひらがなに関してはお手本の活字がなかったわけで、一から工夫して作られたものです。
質問:日本は、漢字とひらがなが多いから、面倒ですよね。
入口教授:本当に面倒だったと思われます。組みが複雑になるのですね。紹介はしませんでしたが、漢字の横にルビ(読み仮名)を付けた活字も作られています。
質問:一個の活字で1文字分から3文字分があるのに、下の端が揃っているのがすごいです。改行まで計算しているのでしょうか?
入口教授:計算しているとしか考えられません。行の下が一字分空いたりしたものはほとんど見られません。相当に緻密に組んだものと考えられています。
質問:活字は,よく出てくるものは同じものをいくつも作るでしょうか?数ページ組んだら,一旦崩すのでしょうか?
入口教授:数頁で組み直しています。私が調査したものでは、1丁(1枚の紙を二つ折りにします。従って2頁分が1丁になります)ごとに同じ活字が出現したものがありました。1丁印刷しては、すぐにバラして組み直していたものもあるわけです。よく出てくる文字は何個も作っています。これは漢字でもひらがなでも同様です。
質問:昔の人は、文字が繋がっていた方が「読みやすかった」のですか?
入口教授:「読みやすい」というよりも「慣れ」の問題だと考えられます。ひらがなが派生した平安時代初期のひらがなは、比較的一字ずつがはっきりと区別して書かれています。徐々に連綿体になっていったようです。そのことに対する「慣れ」の感覚の方が重要だったと私は考えています。
江戸の出版について
江戸時代は出版業が盛んになった時代でした。イベントでは和本が当時どのくらいの値段で売られていたのかというお話もありました。面白かったのは物価の基準に何を置くかで印象がずいぶんと変わるということでした。例えば1709年刊の書籍カタログ、『増益書籍目録』によると、『いそほ物語(イソップ物語)』の本が、三冊セットで銀2匁5分と書かれていました。これを金1両=10万円という米の値段ベースで換算すると4,498円、現代のちょっと高めのハードカバー本くらいの値段になります。しかし、当時の大工の賃金から換算したレート、金1両=35万円で計算すると、15,743円という、現代であれば豪華DVDボックスセットくらいの値段となります。
気軽に買うには高価だった本ですが、行商スタイルの貸本屋が各家を回っていました。庶民はレンタルで流行の小説などを楽しんでいたようです。
質問:当時本屋さんがあったんですか?
入口教授:江戸時代、17世紀の中頃に商業出版を行う本屋が出現します。それ以前の印刷は、大寺院がほとんどで、室町時代末に大内氏や島津氏などの有力大名、堺の町衆などが出版を始めます。ただし、これらはまだ商業出版というようなものではなかっただろうと考えます。
質問:それぞれの版元は、得意分野のようなものがあったのでしょうか?
入口教授:江戸中期以降、大きく分けて「書物問屋」と「地本問屋」の二種類がありました。書物問屋は主に漢籍、仏教、歴史などの学術的な書物を扱います。地本問屋は草双紙や狂歌絵本、浮世絵などおもに娯楽的な本を扱いました。
質問:江戸時代にもこういう本が閲覧できる図書館のような場所がありましたか?
入口教授:公開の図書館はほとんどありません。図書を集めているのは大名や塾などで、藩校で勉強する人、塾で勉強する人たちはそこの本を見ることができました。一般の人が使える図書館はなかったと思われます。
福井:店舗型の大規模貸本屋があったり、一部の蔵書家がコレクションを一般に貸し出したりといったこともあったと聞きますが。
入口教授:名古屋で貸本屋を開いていた大野屋惣八や、江戸の蔵書家の小山田与清などのことですね。私が調査したことのあるところでも、信州中野の大庄屋、山田太郎左衛門家の蔵書なども、同様の役割を果たしていたようです。確かに19世紀にはこのように例外的に公共図書館に近い機能を持つものもありましたが、そういったものにアクセスできる人は社会全体ではごくわずかだったと思われます。
質問:イソップ物語、誰がどうやって和訳したのでしょうか?
入口教授:誰がどうやって訳したかは残念ながらまだわかっていません。
福井:日本で最初にイソップ物語を紹介したのはイエズス会の宣教師で、16世紀に天草でヨーロッパから持ち込んだ印刷機を用いてつくられた、ローマ字表記日本語版のイソップ物語『イソポのファブラス(ESOPO NO FABVLAS)』が残されています。ただしこれは宣教師が日本語を覚えるための教材として作られたそうで、江戸に普及した『いそほ物語』と内容も異なるそうです。
次回は粂汐里さんに、かつて実在を信じられていた謎の生物、人魚をテーマに質問に答えていただきたいと思います。乞うご期待!