“化学”コミュニケーターの竹腰、廣瀬とともに、今年のノーベル化学賞を担当します保科です。
私の専門は地球科学で、大学院では南極へ雪を採りに行って過去の地球大気の変化を調べ、その後、都市の大気中の温室効果ガスを観測していました。
そんな私にとって「化学」とは、地球で起きていたこと、今起きていることを調べるための手段、でした。
ですが未来館へ来て、化学を専門にしている人の話を聞くと、
「あの分子構造はよくできている!」
「パーマをかけるとき2種類の液を使うのは、最初に“分子”の結合を切ってからのばして、次にそれを固定している」
“分子”ということばがたくさん出てくる!
そしてどうやら、さまざまな現象を分子レベルで見ているらしい!?
たしかに周囲を見渡してみると、いつも使う便利なものも、食べ物も、そして私たちの体も、すべては分子からできています。ふだんは分子を意識することなどありません。でも、分子からできているのであれば、分子の構造やはたらきを知ることは、私たち自身も含め、この世界を知ることにつながるのかもしれません。
化学者の見ている世界
「すべての酵素は美しいが、ATP合成酵素は最も美しく、ユニークで重要な酵素である」
この一文を見て、私は衝撃を受けました。「酵素(分子)が美しい!?」
これは1997年にジョン・ウォーカー博士とともにATP合成酵素の構造とはたらきを解明したことでノーベル化学賞を受賞した、ポール・ボイヤー博士のある論文*の冒頭です。分子の構造やはたらきを解明したいと思うだけでなく、分子そのものを「美しい」と愛でてしまうのが、化学者なのでしょうか。
化学者の見る世界、分子の“ユニーク”さと“重要”なはたらき、そして“美しさ”について、このATP合成酵素から少し探っていきましょう。
分子が持つエネルギー
人間や植物もすべての生き物はからだの中にエネルギー源となるものを取り込み、それをからだの中で使いやすいエネルギーの形に変化させています。このエネルギーの受け渡しにATP(アデノシン三リン酸)という分子が活躍しています。
ATPはエネルギーの高い化合物で、これが体の中で分解されることでエネルギーが出てきます。生き物はこのエネルギーを使って、代謝反応や筋肉を動かすような運動、細胞内のさまざまな化学反応を起こしています。食べ物などからのエネルギーをATPのかたちで蓄え、必要なエネルギーを必要な場所にATPの形で届けることができることから「エネルギー通貨」とよばれます。
体の中で回転しながらエネルギーを作りだす分子
体の中でエネルギーの受け渡しをしているATP。これも重要な分子ですが、今回、私が注目するのはそのATPを作りだしているATP合成酵素という分子です。この分子、とっても不思議な形をしています。この酵素の発見でノーベル賞を受賞したボイヤー博士が美しい」と評した形です。
図で色分けして示したひとつひとつのパーツはサブユニットと呼ばれているもので、原子が絡みあったアミノ酸のかたまりです。そのため、実際はもっとはるかに複雑な形をしています。複雑なのは見た目だけではないのです。
実はこの分子、一部がくるくると回転することでATPを作りだしているのです!
分子が回転するとは、どういうことなのでしょう。
ATP合成酵素はほとんどすべての生物が持っている分子で、人間の場合、細胞の中にあるミトコンドリアという二重膜で包まれた小器官の内膜にあります。
その様子、分子をさらに簡単にした図であらわすと、このようなイメージ。
ミトコンドリアの内膜から飛び出すようにいるのがATP合成酵素です。膜の中に埋まっている部分とそこから出ている部分が回転し、外側についている棒状のものに回転部分が順番に接触することで、ATPが作られています。
くるくると回転していると仮説を立てたのがボイヤー博士ですが、発表当時(1982年)はこの酵素の構造がまだよくわかっていなかったことと、仮説があまりにもユニークすぎたことで、なかなか受け入れられなかったそうです。回転する酵素など、当時は知られていなかったので、構造もよくわからないのに回っているとする仮説は、突飛だったのかもしれません。その後、ウォーカー博士がATP合成酵素をX線解析によって3次元構造を観察したことにより、ボイヤー博士の仮説が受け入れられました。
また、ATP合成酵素の解明がノーベル化学賞を受賞した年、光学顕微鏡を使ってこの酵素が回転する様子が観測されました。
回転の様子がわかりやすいようにATP合成酵素にアクチンフィラメントというものを取り付けて観察しています。
1つひとつのパーツがどのように回転しているのかをCGで示したのはこちら。
光合成植物の場合は、細胞内にあるやはり膜で覆われた葉緑体のチラコイド膜というところにATP合成酵素があり、光を感知すると活性化して回転します。光がATP合成酵素をぐるぐる回すスイッチのような役割をしています。回転するだけでなく、スイッチのようなものまでついているとは…
どんな研究がノーベル化学賞を受賞するの?
さて、話をノーベル賞に戻すと、化学賞では実に多岐にわたる研究分野が受賞しています。
近年の受賞研究を振り返ると、昨年2019年に受賞した二次電池のように私たちが普段手にするものから、体の中のタンパク質のはたらき、そのタンパク質やウイルスなどの構造を見るための方法までさまざまな研究があります。
タイトルだけ見ると、「なんでその研究が化学賞?」「生理学医学賞、物理学賞じゃないの?」と思われる方も多いかもしれません。ノーベル化学賞に該当する研究は、物理的な理論を解明したもの、生き物のからだの仕組みを理解したものです。そして、それを構成する分子の構造やはたらきを理解する研究、それを応用することで私たちのくらしを便利にしてきた研究に贈られる賞なのではないかと今年の未来館化学チームは考えています。
分子からひも解くエネルギー
そして、今年の未来館ノーベル化学賞チームの注目テーマは「エネルギー」。エネルギーと聞くと、みなさんはどんなエネルギーを想像するでしょうか。
今回は特に化学の視点、分子からエネルギーをひも解きます。
ノーベル賞の設立者アルフレッド・ノーベル。彼が開発したダイナマイトは化学変化によって出てくるエネルギーを人間が使いやすいようにしたものです。ニトログリセリンに刺激を与えると二酸化炭素、酸素、水蒸気、窒素に変化します。この化学変化によって、化学エネルギーも変化しています。ダイナマイトは化学エネルギーの変化によって出てくるエネルギー(ここでは熱エネルギー)を利用しています。
化学エネルギーとは、分子が持っているエネルギーのこと。分子のつなぎ方や状態が変わると、全体の化学エネルギーが変化します。もとの分子よりもエネルギーの低い分子に変化すると、余った分のエネルギーが熱や光などの別のエネルギーとして放出されます。先ほどのダイナマイトの例でいうと、ニトログリセリンのもつエネルギーは変化後の分子たちのエネルギーよりも高いため、その差分が熱エネルギーとして出てきます。
目に見えないほど小さな分子、そのエネルギーをうまく使うことができると、トンネルや鉱山開発などが容易になるほどの大きなエネルギーを取り出し、人間の手で利用することができる。分子の持つエネルギーはすごいと思いませんか?
化学エネルギーというと、なかなかなじみがないかもしれません。ですが、昨年のノーベル化学賞の受賞テーマであったリチウムイオン電池は、電気エネルギーを化学エネルギーに変えて充電し、電気を使いたいときには化学エネルギーを電気エネルギーにするものでした。
化学者たちは、分子の形をみると、水に溶けやすいとか、硬そうだとか、相手を酸化させそうだとか、見当がつくといいます。みなさんも分子の構造やはたらきに注目して、一緒に今年のノーベル化学賞を楽しんでいきましょう!
※ Boyer P. D., Annu. Rev. Biochem., 66, 717–49 (1997)