街の中の地球史、地球史の中の私たち

 9月のはじめ。未来館の周辺を散策してみようと、お台場の街をふらふらしてみた。お台場はきれいで、広くて、好きだ。でもちょっとだけゴミが落ちていたりもする。最近は、マスクのゴミが増えてきている。コロナ禍はもう、1年半以上続いている。

 昼が近づいてちょっと暑くなってきたので、商業施設に駆け込んだ。今日は平日で、人もまばらだ。大学生はまだ夏休みなんだろうな、というような感じの客層の中、一人であてもなくふらついた。あてもなくふらつけるのは、ぜいたくなことだなぁと思う。ふと石造りの床に目をやると、こんなものを見つけた。

某商業施設の床の石材に入っていた化石。

 アンモナイトだ。

 僕は田舎者なので、その反動で(?)都会の高いビルが好きだ。ビルの写真集も持っている。大学に入ったばかりの頃はよく街をふらつきながらビルを見てまわったものだった。派生して「ビル化石」や「街角地質」なる分野の本を読んだことがある。ビルの石材の中に海外の石や大きな鉱物の結晶、あるいは化石なんかが入っているのはそんなに珍しいことではなく、実は至る所にある。このアンモナイトもその一つだろう。

未来館5階にあるサイエンスブックカフェでも紹介されていた、「街角地質学」。昨年まで在籍していた科学コミュニケーター高橋さんの推薦本。

 あるいはこんなものもあった。これは生痕化石、つまり何かの生き物がはい回ったり、巣を作ったり、餌を食べたりした痕だ。あるいは排せつ物の化石ということもある。生物そのものの体以外も化石として残るなんて、なんだか不思議だ。じいちゃんの書斎に残っていたメモみたいな感じだな。地層の中に残っているメモ。“彼ら”の生活に関する走り書き。一生懸命生きたんだろうな、と勝手に思う。

巣穴か、排泄物か、足跡か……。確かなことは僕にはわからないけれど、おそらく何かが“生きた痕”。

 後日、古生物(昔の生き物)に詳しい科学コミュニケーター花井さんと写真を見ながら雑談をした。花井さんはこんなことを言っていた。

「生き物の痕跡というのは、めったなことでは化石として残らないんです。体のほとんどの部分は簡単に腐ってなくなってしまいます。残るのは大抵、骨や固い殻だけ。そして、死体がほかの生き物によって食われたりする前に、速やかに堆積物の中に埋もれないといけません。運よく埋もれた後も、周囲からの熱や圧力の影響に耐えたものだけが化石として残るんです。いろんな関門を乗り越えないといけないんですよね。」

 花井さん曰く、生き物が死んでから化石になるまでのプロセスを研究する分野もあるらしい。タフォノミーと呼ばれる分野だ。

 地層、という言葉をちょっと未来館につなげてみたい。シンボル展示である「ジオ・コスモス」で定期的に流れるデジタルコンテンツに、「未来の地層」がある。

ジオ・コスモスは2021年10月5日からちょっと長めのメンテナンス工事に入ってしまい、残念ながら今は見ることができない。でも大丈夫、作品はYouTubeで鑑賞できます。リンクは最下部。画像に写っているのは、金属やプラスチック、コンクリートが降り積もって「未来の地層」を形成しているまさにそのシーン。

 「未来の地層」の中では、わたしたちが長い地球の歴史、地球史の中でどんな風に誕生し、そして存在してきたのかということをラップに乗せている。人類が過ごしてきた時間は長いように思えるけど、地球史の中ではほんの一瞬だ。今私たちが生きているこの時代は、ものすごい長い年月が経った後には、「わずか数ミリの地層」になってしまう。「未来の地層」の中では、そんなことが表現され、最後にはこんなフレーズが流れる。

「僕らがつくる数ミリの地層 未来の知能はそこから何を見出すんだろう。」

 わたしたちが地層の中から生命の痕跡を見出すように、遠い未来には、今度はわたしたちが「未来の知能」から何かを見出される側になる。そんなことを「未来の地層」は言っている。地層は、生命と環境のアーカイブだ。地層の中に残るためにはいくつかの条件があって、何でもかんでも残るわけではないけれど、それでももし残っていたら、見出される。

 そんな風に、僕たち「人類」の生活の痕跡がもはや地層の中、地球の歴史の中に残ってしまうようなものであるということを表す概念にAnthropoceneというのがある。日本語に訳すと「人新世」。人類は多くの壊れにくい物質を作り出したり、特定の物質を大量に利用したりしている。こうした痕跡は、地層の中に残るかもしれない。もはやわたしたちがいま生きているこの時代は、ほかならぬ「人間の活動」によって遠い未来の知能から判別されるだろう、ということである。例えば私たちが、アンモナイトや恐竜などの生き物の化石、あるいは地層に刻まれた過去の気温や、磁場や、大気の組成の変化を基に地質年代を見分けるように。

 人新世の存在に関する議論は、科学的には決着がついているものではない。それは純粋に自然科学の問題としても捉えられるけれど、むしろ地質学者以外の僕たちにとっては、自分たちが住む世界・時代をどう見つめるべきなのかという問題とも捉えられるのかもしれない。例えば、中村桂子さんは「人新世」についてこんな文章を書いている。

『人新世』を地質年代とするか否かは専門研究者に任せたい。ただ、人間を生き物として見る立場からは、それは意味あることとは思えない。『人新世』と思わず言わずにはいられない状態を続けたら、恐らく『人新世』を地質年代として見届ける人はいないだろうからである。

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 道に、マスクが落ちていた。僕らが作る数ミリの地層。その中からもし、“マスク”が現れたときに、それはどんな“生痕化石”だと思われるだろう。今、こんな時代を生きている僕たちの新しい行動様式や、抱いている悩みや不安や、あるいは幸福を、未来の知能は見出してくれるのだろうか。今ここに落ちているマスクが、何に食われることも、腐ることもなく、遠い未来の地層の中に残り続けたら、の話だけれど。

中村桂子(2017) 「人新世」を見届ける人はいるのか. 現代思想Vol.45-22特集人新世—地質年代が示す人類と地球の未来—. 42-45.

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