令和3年(第15回) みどりの学術賞 受賞記念イベント報告

ゲノム研究でどんなことがわかるの?どんなことができるの?

「ゲノム解読によって、生命現象を理解するための手法が劇的に変化したと言っていいでしょう」

令和3年(第15回)みどりの学術賞を受賞した田畑哲之先生はそう語ります。
この言葉は202173日に実施したオンラインイベント『植物の情報を読み解く!~植物ゲノム研究でわかること、できること~』の企画段階で聞いた言葉です。このブログではトークイベントで語られた田畑先生の言葉の意味や、タイトルにもある植物ゲノム研究でどんなことがわかるのか、どんなことができるのかを紹介します。ブログの最後にトークイベント内で答えきれなかった質問への回答もあるので、トークイベントをご視聴いただいた方も最後までぜひご覧ください!

田畑哲之先生(画面右)とオンラインでつなぎ、トークイベントを行いました。

ゲノム研究でどんなことが“わかる”の?

田畑哲之先生は『「光合成生物ラン藻のゲノム解読に始まる植物ゲノム科学の推進と持続的農業生産系への展開」に関する功績』により、令和3年(第15回)みどりの学術賞を受賞しました。この受賞理由の通り、田畑先生は植物ゲノム科学という分野を開拓し、推進してきた研究者です。ゲノム解読の技術が整い始めてきた1990年代からゲノム解読に取り組んできた、いわば先駆者のひとりです。功績の中にもあるラン藻という細菌のゲノム解読を行っただけでなく、植物としては世界で初めてだったシロイヌナズナのゲノム解読国際プロジェクトにも参加しています。ではそもそもゲノム解読とは何なのでしょうか。

ゲノム解読によってDNAがどのような並びかという情報が得られる

ゲノムは生きものを形作り、そして子孫に受け継がれる遺伝情報まるごと1セットを指す言葉です。ゲノム解読を行うと、遺伝情報を物理的に伝えるDNAという分子の並びが、より詳しくいうとDNAの一部でありATGCの4種の文字列情報で表される塩基がどのような配列であるかという情報がわかります。

DNAの2重らせん構造。ゲノム解読を行うと4種類の塩基がどのような順番で結合しているかが明らかになります

ゲノムは生命の設計図とも呼ばれる

DNAという分子の一部である塩基、その配列情報がわかることは生命現象を理解する上で非常に役立ちます。その理由の1つは次の図のように、DNAの配列情報をもとに、生命現象を支えるためにそのときにその場で必要とされているさまざまな物質が、転写や翻訳といった過程を経て作られていくからです(実際はもっと複雑ですが…)。このように生物の生命活動を保つ物質の情報を保持していたり、遺伝情報として子孫に受け継がれることから、ゲノムは「生命の設計図」という風に言われることもあります。

遺伝情報から生体分子への流れ

イベントのアーカイブ動画では皆さんも一度は聞いたことのある遺伝子とゲノムの違いについて、ゲノム解読の歴史についてより詳細に述べられているので、ご興味のある方はぜひご覧ください。


植物の情報を読み解く!~植物ゲノム研究でわかること、できること~ 令和3年(第15回)みどりの学術賞 受賞記念イベント|YouTube(外部サイトへ)
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=NXZaybtcthA


このブログでは、ゲノムというものは様々な生命活動が行われる課程の根っこにある最重要な存在であることを意識しながら後の記述をお読みください。

ではそのようなゲノムが解読されることでどのようなことがわかるのでしょうか。

ゲノム解読が進みゲノム研究が生物学の各分野を繋ぐ共通言語になってきた

ゲノム解読の技術が進むにつれ、様々な生物のゲノムが解読されてきました。そしてゲノムがわかることで、実際にどのような物質が作られていくのか、それがどのような生命活動につながっているのかがより詳しくわかってきました。

「ゲノム研究の進展により、ゲノム研究は生物学の各分野を繋ぐ共通言語となってきた」と田畑先生は語ります。遺伝学や植物学、生態学など生物を理解するための学問領域はたくさんあります。ゲノムは生命の設計図とも言えるので、それらの学問領域を横断し、生命現象を理解するための1つの視点としてゲノム研究は共通言語化していきました。
つまりゲノム研究の推進により様々なことがわかっただけでなく、生命現象を理解するための視点が増えたとみることができます。

ゲノム研究は生命を理解するための1つの視点として共通言語化していきました

ゲノム研究でどんなことが“できる”の?

ゲノム研究が後押ししたのは生物自体を理解しようとする学問領域だけではありません。より豊かな社会を目指した研究開発の領域とも関係します。田畑先生は、新たな品種をつくり出す育種学に関する話題を具体例として紹介しました。

ゲノム研究によって育種の高速化・高効率化を目指す

「育種の高速化・高効率化を期待できる」

田畑先生はそう話します。具体例として、交雑育種と遺伝子組換え育種のような品種改良をあげながら詳しく紹介してくれました。

交雑育種は今ある品種同士を掛け合わせて、新たな品種を作り出す方法です。昔から行われてきた方法なので様々な方法が確立されている上、手法自体の安心感もあります。一方で新たな品種ができるまで時間がかかることや、交配によってゲノムのどの部分がどう組み合わさって新しい形質が得られたのかが、これまでよくわかっていなかったことなどの課題もあります。こうした課題にゲノム研究が貢献できます。ゲノムの情報を調べることで、交雑の過程で両親からどの遺伝子が伝わったのかを追跡できる、そうすることで交配と選抜の高効率化を目指せます。

交雑育種の長所と短所

一方、遺伝子組換え育種では植物に有用な遺伝子を組み込み新たな品種を作り出します。交雑育種と比べ、新たな品種ができるまでの過程がわかる、その期間が短かいなどの長所があります。一方で、遺伝子組換え技術に対する不安感が社会の側にあったり、栽培や流通に規制があります。また、そもそも、改良につながる有用遺伝子があらかじめわかっていなければ、この技術は使えません。ゲノム研究ではこの有用遺伝子の探索を行う上で高速化や高効率化に貢献できます。

遺伝子組換え育種の長所と短所

育種の高速化・高効率化は急速な人口増加や急速な気候変動に対応するために役立つ

ゲノム研究は育種を効率よくスピードアップできることはわかりましたが、なぜ高速化・効率化が必要とされているのでしょう? その理由について田畑先生はこう語ってくれました。それは産業革命以降の急激な人口増加に対応した食料生産だけでなく、近年、地球規模の課題となっている急速な気候変動に適応した新品種の育成が必要とされているからです。これまでは収穫量を増やすことが重視されてきた食料生産技術ですが、これからは気候変動にも対応できる技術の開発が望まれます。田畑先生はその第一歩として、環境変化に対応する植物の性質やそれに関わるゲノム情報に関する基礎的な研究を進めるプロジェクトの総括も務めています。

気候変動への対応は急務です。田畑先生は「世界中のそれぞれの地域で育てられている作物はその地域で美味しくそしてたくさん収穫できるように最適化されている。気候変動によりその前提が崩れてしまうことが問題だ」と話しました。

21世紀では急速な気候変動に対応できる食料生産技術が求められている

ゲノム科学でこれからどんなことがわかっていくの?

生命現象の全体像を探る木だけでなく森を見る視点が生まれつつある

最後に田畑先生は生命現象を理解するための新たな手法が生まれつつあることを紹介してくれました。最近たくさんのデータから法則を見つけ出すデータ駆動型の研究スタイルが生まれつつあります。従来の生物学では「こうかもしれない」という仮説をたてて、それを実証する仮説実証型の研究が一般的でした。例えばあるタンパク質ができるのに、どの遺伝子が関係しているのかを仮説をたてて探っていく研究などです。

こうした研究とは異なり、データ駆動型研究は「木だけでなく森を見る視点」というように田畑先生は語りました。つまりある生命現象の特定の機能だけに注目するだけでなく、もっと俯瞰して全体像を捉えられないかという試みです。これを田畑先生はジグソーパズルの例にも例えてくれました。従来の仮説実証型研究ではジグソーパズルのピースの形を1つ1つ明確なものにできる。一方データ駆動型研究ではジグソーパズルの全体像を大まかに探ることができます。「どちらが良い/悪いではなく、相互に補完し合うことで生命現象の全体像が少しでも見えてくるのではないか」と語りました。

生命現象の全体像を知るために木も見て森も見よう

研究を進めてわかればわかるほど、わからないことも増えていった

最後にファシリテーターである上田から田畑先生に「生命現象の謎を解き明かそうとするおもしろさ」をお聞きする場面がありました。田畑先生は返答としてゲノム科学の進展によって様々なことがわかると、同時にわからないこともたくさん出てきたことや、それによって元々知りたかった生命現象それ自体の解明が進まないもどかしさを話してくれました。田畑先生が研究に取り組もうとしたきっかけやこれまでの具体的な取り組みについて、田畑先生自身の思いを中心に紹介するブログもあるので、ぜひご一読ください。


生命現象の謎を探究する奥深さ | 科学コミュニケーターブログ
https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20210702post-423.html


今回はタイトルにあるゲノム科学でわかることとできることに焦点を当ててお伝えしました。田畑先生の話の中でも伝えきれなかった話題がたくさんあります。特に最後にお話いただいた生命現象の謎を探究するおもしろさの部分は、会全体を通して見ることでその言葉の深みも増します。ぜひご覧ください。


植物の情報を読み解く!~植物ゲノム研究でわかること、できること~ 令和3年(第15回)みどりの学術賞 受賞記念イベント|YouTube(外部サイトへ)
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=NXZaybtcthA


もっと知りたいと思った方向け情報

ゲノム自体に興味を持たれた方はぜひゲノムに関する科学コミュニケーターブログをご覧ください。


ゲノムと医療、どう考える? | 科学コミュニケーターブログ
https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20210811GenomeMed.html


簡単に番組の内容と再生時間のリストも残しておきます。

番組の内容と再生時間のリスト

みどりの学術賞の説明や説明等
3:40~ 本編開始
5:42~ 田畑先生のご功績等の紹介

トピック1「ゲノムってなに?」
8:56~ ゲノムとは
15:36~ ラン藻のゲノムを見てみよう
18:00~ トピック1のふりかえり

トピック2「ゲノム研究の歴史とその広がり」
20:52~ ゲノム解読の技術の進歩
30:15~ 生物学の個々の分野を繋ぐゲノム研究
33:13~ ゲノム研究と育種学の接点
41:10~ トピック2のふりかえり

トピック3「ゲノム研究でわかること」
50:38~ ゲノム研究で生まれた視点「木も森も見る視点」
56:21~ トピック2のふりかえり
58:00~ 田畑先生が思う「生命現象を解き明かしていくことのおもしろさ」

質問へのお返事のコーナー

最後にイベント参加者の皆さんにいただいた意見や質問を紹介します!ここからはトークイベント本編を見ていない方にとっては唐突な質問内容もでてくるかもしれませんが、ご了承ください。

  • PCR法でDNAの増幅の話が出てきましたが、他の生物のDNAは増幅されないの?新型コロナウイルスでもPCR検査をしていると思います。ピンポイントで知りたいDNA情報だけ取り出せるのでしょうか?

DNAの塩基配列は生物種ごとに違います。正確にいうとほかの種とも共通した部分とその種だけに特徴的な部分があります。新型コロナウイルスであれば、たとえばSARSを引き起こしたコロナウイルスやただの風邪を引き起こすコロナウイルスと共通した配列が多いのですが、新型コロナウイルスだけに特徴な配列もあります。この配列を足がかりにして増幅するので、ピンポイントで新型コロナウイルスの配列だけを増やすことができます。そのためにも生きもの毎にどのDNA配列がその種に特徴的であるのかをわかっていることが大事です。

  • 膨大なゲノム配列から有用遺伝子を見つけるのは難しいですか?また配列を見ただけでは有用か有用でないかの判断は難しいと思うのですが、どのように研究されているのですか?

どんな機能があるかわかっていないDNA配列を見ただけで、有用かどうかを判別することはまだまだできておりません。どの遺伝子がどう働くかを様々な研究者が調べてきました。遺伝子の機能を調べる研究の手法として順遺伝学や逆遺伝学というような手法があります。取材ブログでも触れているので、よければご覧ください


生命現象の謎を探究する奥深さ | 科学コミュニケーターブログ
https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20210702post-423.html


  • 改良品種の安全性の確認は行われているのでしょうか

交雑育種では特に安全性を審査する仕組みはありません。一方で遺伝子組換え育種でできた食品の安全性は厳しく審査されています。そこには内閣府の食品安全委員会が関わっており、様々な論点での評価や議論が行われています。評価基準やその考え方についても公開されているので、よければご覧ください。


遺伝子組換え食品等専門調査会|食品安全委員会(外部サイトへ)https://www.fsc.go.jp/senmon/idensi/


また遺伝子組換え植物に私たち一人一人がどう向き合うかについて、遺伝子組換え植物で土壌中のセシウムを除去することに関するイベントの報告ブログで取り上げています。


イベント実施報告:遺伝子組換え植物でセシウム除去を目指す | 科学コミュニケーターブログ
https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20130627post-294.html


  • 気候変動と育種等の関係をもっと知りたい

2019年のみどりの学術賞受賞者である矢野先生の取り組みを紹介した科学コミュニケーター綾塚のブログで、有用遺伝子を探す取り組みや気候変動と育種の関係について触れています。ぜひご覧ください。


イネのこれまでとこれからのお話し | 科学コミュニケーターブログ
https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20190906post-5.html


さてここからはより専門的かつ田畑先生個人への質問に対する回答です。こちらは田畑先生に後日伺った内容です。

  • 田畑先生がタンパク質の次に注目されている、細胞内物質についての研究はどれくらい進んでいるのでしょうか。植物のゲノムは膨大なイメージがあって研究するのが大変そうですが研究しようと思ったきっかけは何でしょうか。また、ゲノム編集による育種研究はされていますか 。

田畑先生のご回答:

細胞内物質について計測する手段は整ってきていますが、それ以降はこれからというところです。具体的には計測したデータをどのように解釈していくかがこれからという段階です。非常に複雑な過程をどのように解釈していくのかがとても難しいです。複雑な経路を丁寧に調べるのは大変ですが、そういう分野はまさに計算機が得意な分野なので、今後の発展が期待されます。また複雑な課程が明らかになった後の最終的な検証段階では人が実験を行うので、その段階でまたも膨大な作業が見込まれます。

ゲノム研究に関わろうとして理由ですが、ゲノムを調べると生命現象自体についていろいろわかると思いました。ですが、実際にやってみるとその複雑さに驚きました。

なおゲノム編集による育種は関わっていません。ゲノム編集はゲノム解読が行われた後に実施されるので、前段階で関わっていると言えます。

  • ジグソーパズルの例えはわかりやすいですね。「森」が「木」レベルまでわかっているものはありますか?

田畑先生のご回答:

今、木レベルで分かっている研究はたくさんあります。つまり、どの遺伝子がどの機能にかかわるかなどです。しかし全体のストーリーがわかっていません。計測機器や実験技術の発達により、木レベルでの解明はどんどん進んでおり、森を構成する木の種類や数もわかりつつあります。しかし、たくさんの木の相互作用によって作られる生態系、すなわち森の全体像はなかなかつかめません。

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