「ヒトゲノム計画のスタートから約30年…(中略)…ヒトゲノム計画が医療を大きく変えるという約束を果たしたことを示している」
皆さま、こんにちは。今回は“2021年 推しの1本”と称して、詫摩が独断と偏見で選んだ論文を紹介します。冒頭でいきなり引用したのは、その推し論文の最初の段落です。学術論文としては珍しいほど読みながらドキドキしました。最初の1段落目で、患者の赤ちゃんが元気になったことは明かされているのですが、それでも、です。
臨床医学の分野では最も権威ある雑誌の1つとされるNew England Journal of Medicine(NEJM)誌の6月10日号に載ったその記事はたった3ページのごく短いもの。生後41日目の夜10時49分に脳症で救急搬送された男の赤ちゃんが、翌々日の夜6時にはミルクを飲めるまで快復するまでの経緯が分刻みのタイムテーブルで表現されています。
赤ちゃんの両親がいとこ同士であること、赤ちゃんのお兄さんになったはずの子が10年前に同じような症状で生後11か月で亡くなっていたことから、担当医は遺伝性疾患を疑います。お兄さんのときは診断がつかないまま急速に症状が進み、助けられなかったのですが、10年後の今回は違いました。採血をして、赤ちゃんのすべての遺伝情報(ゲノム)を解読します。
赤ちゃんの血液試料がゲノム解読センターに着いたのが入院翌日の夕方5時1分。前処理を経て夜7時23分にゲノム解読スタート。翌朝6時30分に解読終了。ただちに解析に入り、チアミン・トランスポーター2の遺伝子に、このタンパク質がつくれなくなるような変異が起きていることを突き止めます。脳のCT画像などや何度もけいれんを起こすといった臨床データと突き合わせて、診断と治療方針が決まったのが朝8時23分。治療薬の注文をして、赤ちゃんに最初に投与されたのがお昼の12時13分。18時には頻繁にあったけいれんも治まり、ミルクが飲めるようになりました。翌々日には退院です。
どうです?このスピード感。
ヒトゲノム計画がもたらしたものは、それだけで連載ができるほどたくさんあります。ですが、この論文が示したように、「患者のゲノム解読で直ちに病因を突き止め、治療を始める」はたしかにヒトゲノム計画が描き、約束した“未来の医療”の姿でした。
今回のケースは、たった1例だけの症例報告です。幸運が重なったケースでもありました。例えば、赤ちゃんが搬送された米国カリフォルニア州サンディエゴのラディ子ども病院には、迅速ゲノム解読装置のあるセンターが併設されていたようですが、この装置がある施設は世界的にもまだ珍しいことが最後に触れられています。また、この論文は3ページですが、そのうちの1ページは31人の著者の名前と所属先で埋められています。これだけの人材を抱え、その人的リソースを割ける病院はそんなにはないはずです。何より、この赤ちゃんの病気には治療薬がありました。実際には原因遺伝子はわかっていても、まだ治療法のない遺伝性疾患もたくさんあります。この症例は、幸運な例外だったのかもしれません。
それでも。
生まれてからたった5週間の小さな命が助かった。ご両親が二度も息子を失うような悲しい思いをせずにすんだ。それだけでも、年末に今年の1本として皆さんにご紹介するに値する話だと、詫摩は思います。
2021年がそろそろ終わろうとしております。思い起こせば、あまり穏やかな気持ちでない状態で迎えた年でした。去年の年末、東京での新規感染者の発表数がそろそろ1000人の大台を超えそうだと案じていたら、大晦日にいきなり1353人という数字になり、全国では過去最多の4532人でした。年明け後も三が日のさなかに、都知事や官邸が慌ただしく動き始めていました。
4532人という数字の約5.7倍を8月には経験しました。この数カ月は比較的穏やかな状態でしたが、オミクロン株の出現が影を落とし始めています。
とはいえ、去年の今ごろは私たちがいつごろワクチンを打てるのかははっきりしていませんでした。飲み薬もありませんでした。医療は確実に進んでいます。ヒトゲノム計画が描いた大いなる夢の実現には30年かかりましたが、新型コロナに関しては、ずいぶん速く進んでいると思いませんか?
未来館は明日12月28日より、年末年始のお休みに入ります。新年は1月2日から皆さまの来館をお待ちしております。どうぞ、良い年をお迎えください。