【追悼】小柴昌俊博士の訃報によせて

【後編】先生からの問い「科学でどうしてもわからないことって、なんだろう?」

2020年1112日、東京大学特別栄誉教授の小柴昌俊先生が94歳で老衰のためにお亡くなりになりました。改めて心よりご冥福をお祈りいたします。

未来館の常設展示「ノーベルQ」では、名誉館員のみなさまに「来館者にいつまでも考え続けてもらいたい問い」をいただいており、小柴先生からも以下の問いをいただいていました。


「科学でどうしてもわからないことって、なんだろう?」

小柴先生の訃報を受けた際に、哀悼の意を表してブログ(https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20201116post-390.html)を公開しましたが、その中でこの小柴先生からの問いをご紹介するとともに、お読みいただいたみなさまから、問いに対する回答を募集いたしました。
ご回答いただいたみなさま、ありがとうございました。

いただいた回答の中から多かった意見を、本ブログにてご紹介していきます。

正しい使い方とは?

「正しい科学の使い方」といった回答がありました。
みなさんはどう思いますか?科学の正しい使い方は、科学でわかる、あるいは決めることはできるのでしょうか?もしかしたらこれは、時代だったり立場だったり、科学以外の要素によって大きく変わってくるかもしれません。
例えば、近年は地球温暖化や気候変動が叫ばれており、それはすでに単なる環境問題ではなく、人類の存続を脅かすものとも言われており、人権や経済などさまざまな分野がかかわる問題になっています。世界中の専門家が気候変動について評価する国際組織「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が2021年に出した報告書では、「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには疑う余地がない」とされており、その「人間の影響」とは、二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスを人類が大量に放出してしまっていることだと言われています。その解決、あるいは緩和のためには「脱炭素」、つまりは化石燃料消費からの脱却が求められています。

では、なぜ今まで化石燃料を使用してきたのでしょうか?

私たち人類は、18世紀の産業革命をきっかけに多くの石炭を使うようになりました。これが社会の変革をもたらし、やがて、石油や天然ガスをも含めた化石燃料をたくさん消費することで、社会を発展させてきました。
しかし、化石燃料を使用するうちに温暖化や大気汚染などの環境問題が発生してしまい、だんだんとその悪影響が明るみになってきました。
この流れの中で、化石燃料そのもの、あるいは化石燃料に関する現象には、何も変化がないかと思います。石炭を燃やしたときに出る熱量や二酸化炭素、大気汚染物質の量などは、燃焼条件が同じならば、18世紀も21世紀の今も同じはずです。一方で、私たち人間の目線から見た場合、化石燃料に関する研究が進むにつれて、次々と科学的に新たなことがわかるようになり、それに伴い化石燃料の捉え方が変わってきたのかと思います。二酸化炭素に温室効果があることの可能性が最初に指摘されたのは19世紀半ば、定量的に気候への影響が解析されたのは20世紀の後半になってからです。

産業革命以降たくさん使うようになった化石燃料。今はそれをまた転換するときなのかもしれません。

ここでは化石燃料を例に挙げていますが、この中での「科学の正しい使い方」とは何なのでしょうか?それは科学でわかるものなのでしょうか? 
例えば、化石燃料を使用したときに温暖化や大気汚染などの問題がどのように、どれくらい発生するかのデータは、科学によって提供されます。逆に、化石燃料を使用しなかった場合に何が変わるのか、その予測も科学によって出されます。また、化石燃料に替わるエネルギー源を探っていくことも、科学です。そう考えると、科学は知識を与えてくれるだけで、その使い方の正しさについて与えてくれるものではないのだと思います。何を「正しい」とするかは、自然科学的な内容だけでなく、経済や政治、倫理、あるいは人々の想いなども踏まえた上で、私たちが議論して決めていく必要があるのではないでしょうか。その議論を行う上で、議論の材料の一つとして科学的な情報が用意されるのかと思います。

科学の「正しい/正しくない」使い方については、ただそこに関係する「科学」を見るだけではなく、その周りにあるさまざまな要素も考慮した上で、私たち一人一人が考えていくべきテーマなのかもしれません。

私たちの存在理由

次に、「『わたし』とは何か」だったり、私たち人類、あるいは生命が誕生した理由という回答が見られました。また、「人間の本質」という回答もありました。
こうした「誕生の理由」を考えるときには、二通りのアプローチがあるかと思います。「どのようにして」誕生したのか、いわゆる「How」を考えることと、「どうして」「なぜ」誕生したのか、いわゆる「Why」を考えることです。生命の誕生に関しては、前者では宇宙起源や海底起源などさまざまな説があります。例えば小惑星探査機「はやぶさ2」は、202012月に小惑星リュウグウのサンプルを地球に持って帰ってきてくれましたが、その探査の意義の一つは「生命の起源を探る」ことでした。今後も研究が進められることで、私たち人類を含む生命が「どのようにして」誕生したのか、その謎が解明されるかもしれません。

では、さきほどのアプローチのうちの後者はどうでしょうか?「存在理由」を問う場合は、こちらを考える必要がありそうです。しかしこれは、科学でわかることなのでしょうか?

これが、物理法則に従った自然なことなのではないか、と捉える研究があります。
一杯のコーヒーにミルクを入れた状態を想像してみてください。ミルクはどんどん拡散していき、コーヒー全体に均一に混ざりますよね。逆に、この状態からミルクが勝手に戻って一か所に集まることはないかと思います。この現象を「エントロピー増大の法則」と言い、世の中の物質やエネルギーは、放っておくと乱雑・無秩序な方向に向かい、自発的には元に戻らないということを指します。
しかしこれが、外部と物質やエネルギーのやり取りがある場合は、様子が変わってきます。
ある溶液に外部からエネルギーを加えた場合、溶液中の小さな部分で秩序だった構造を作り、その構造を保ったまま溶液の中を動く(流れていく)ことがあります。そしてその自己組織化(全体のことは何も知らないのに、部分的に個別に秩序だった構造を作ること)が、全体が拡散していく中で、より効率的に拡散するための一つのステップであるというのです。さきほどのコーヒーでイメージすると、外から何かエネルギーをかけることで、拡散していたミルクが集まってくる場所があり、それが最終的に効率よく拡散することにつながる、ということです。
生命が誕生したのも、その効率化の結果だというのです。つまり、もともとは原子や分子レベルでバラバラの状態だったものが、エネルギーを受け取るうちに固まりを作っていった。どんどんその構造が作られる中で、より効率的にエネルギーを受け取れるよう構造が変化していき、その結果として生命が生まれたということです。
宇宙全体を考えた場合、宇宙は外部との物質やエネルギーのやり取りがなく、エントロピー増大の法則に従って最終的には物質もエネルギーも拡散した状態になるのでは、という考えがあります。もしそうだとすると、私たちが今存在しているのは、物理法則に従って物質やエネルギーが拡散していく中で、より効率的になるためのほんの一ステップに過ぎないのかもしれません。そう考えると・・・なんだかちょっと切なくなってきますね。きませんか?
ただ、この理論では自己組織化する(集まって形づくる)ことのHowの説明はできても、生命が誕生した理由、つまり「存在理由」のWhyの説明には不十分ではないか、という意見もあります。

こうした研究がたどり着いた先には、私たちの存在理由はわかるのでしょうか?もしかしたら「わからない」という結論に至るかもしれません。どちらにしても、その答えを受け取った私たちは何を感じるのでしょうか?

私たちの存在理由。みなさんは知りたいですか?知りたくないですか?

「わたし」が考えていること、見ていること

他にも、人間の気持ちや主観、どう感じるか、どう考えるか、といった部分は、科学ではわからないというご意見も、たくさんいただきました。そうだそうだ、と思う方も多いのではないしょうか。

私たちの意識は、どこから来るのでしょう?
例えば私たちが何か物を見たり、外からの刺激を受けたりしたときに、脳の中のどの部分が反応して、どのようなやり取りがされているのか。そうした脳内における電気的・化学的な反応については、研究が進むにつれて多くのことが明らかにされてきました。もちろん、まだまだわかっていないことも多々あります。言い換えると、脳内で起こる現象は、客観的に観測することができます。しかし私たちの意識や考えていることは「主観」です。この「客観」から「主観」が生まれるのはどうしてなのでしょうか?
別の例で見てみましょう。私たちは何かを見るとき、目から入ってきた光を目の奥の網膜で像を結び、そこで電気信号に変換されて脳に送られます。一方でデジタルカメラの場合、レンズを通してセンサーに届いた光が、電気信号に変換されて、CPU(中央処理装置、コンピューターの脳や心臓部にあたるとされる場所)に届けられます。なんだか、起きている現象としてはとても似ているような気がしますね。しかし、私たちの場合はその見た景色から、感想を抱いたり感動したりという「意識」を持ちますが、一方のデジタルカメラはどうでしょうか?おそらく「デジカメに意識なんてないだろう」と思われる方が多いのではないでしょうか。では、繰り返しになりますが、私たちの脳内で起きる電気的・化学的反応の先に、どのようにして意識は生まれるのでしょうか?
なんだか不思議に聞こえるかもしれませんが、これは実際に多くの研究者が疑問に感じ、そして研究されている内容です。例えば、脳の中での神経活動を担う神経細胞の、さらにその中にある微小な粒子のふるまいを詳しく調べることができるようになれば、意識の謎を解くカギが見つかるのではという考えがあります。あるいは、やはり意識は別物なので、脳内の現象が完全にわかっても謎のままじゃないか、と考えている研究者もいます。
また、自然科学の世界では「客観的な説明」ができることが必須であるので、主観である「意識」を客観的に見ることができなければ科学的に解明されたということができず、そのような方法があるのかについても、さまざまな議論があります。

私たちの意識はどこから来るのでしょう?

この先、私たちの主観、つまり私たちがどう感じているか・考えているかについて、そのメカニズムが明らかになる日は来るのでしょうか?でもなんだかそれって、明らかにできたとしても、明らかになってほしくない気がしませんか?(これは私の主観です)

あなたの考える「科学でわからないこと」は?

他にも、「科学でどうしてもわからないこと」に対するご回答は、いろいろあると思います。みなさまはどうお考えになりますか?
あるいは、小柴先生ご自身は、どのような思いからこの問いをくださったのでしょうか?
未来館にお越しいただく機会がありましたら、みなさまの考えをぜひ科学コミュニケーターに話してみてください!

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